2004年10月26日

今の自分とボート部

久々に、ボート部について書こう。

自分は、非常勤マネージャーになった。艇庫で毎日寝泊まりするわけではなく、週1、2回艇庫に行って仕事をする。主な担当は、京大との対抗戦のマネジメントと新勧の戦略・準備である。この週末は艇庫に行って、久しぶりにあそこに泊まった。来年の3、4月の新勧は、今から毎週ミーティングをしているのだが、若手ビジネスマンOBも何人も交えて随分と本格的な議論をしている。ターゲットを分析したり、コストを考えたりしながら、どの点で他の部活と差別化するかという問題を真剣に話し合っている。会社の会議はこんな感じなのだろうかと思った。

ボート部漕手として頑張っている人達は、毎日朝5時に起きて練習に励んでいる。大声を上げて筋トレしてたり、走ってきて汗だくになっているのを見ると、こちらの身が引き締まる思いがする。「忙しい」「疲れた」なんて言葉は、彼らの前では陳腐な言い訳にしかすぎなくなる。最近自分は体内時計が狂いっぱなしでだらけていたので、艇庫に行って気が引き締まった。自分は、自分の道を頑張らなければいけない。
posted by かっしー at 16:45| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ボート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月22日

映画『オール アバウト マイ マザー』

allabout

ひとり息子を亡くした母親が、その子の父親であるかつての夫を訪ねていく、というのが一応本筋のストーリーなんだが、なんだかその周りにいろいろな女性が出てきて、それが非常に印象的で楽しい映画でした。とにかく自然体でいる「女」がたくさん出てきます。妊娠してエイズにかかってしまった修道女、男から女になったオカマ、レズっ気のある失意の女優など。でも、その撮り方がごく自然で、全然暗くなくてカラッとしている。まるでスペインの空気ように?

「赤」がいろいろな登場するのですが、それがとても鮮烈で、パリっとしているのがいい。血の色。生命の象徴である赤が、新しい赤ん坊の命に重なって、「私たち生きているのよ、生きていくのよ」と感じさせられました。
posted by かっしー at 15:26| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ただ今、ギリシア語の予習中

1時間にやっと1行解読。
まるで『ターヘル・アナトミア』を読んでいるような気分だ。
posted by かっしー at 03:44| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日常生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月21日

「Express」論

以下、自分が高校3年のときに書いたテクストを載せます。
これはある友人へのメールとして書いたもの。受験生が何やってるんだよという感じですが、自分は本当によくこういうことを考えていました。


VINCENT VAN GOGH−−−−

今や知らぬ者はいない油絵の巨匠である。一枚の絵が十何億で取り引きされるほどに、現在彼の作品は高い評価を得ている。だが、彼が生きている間は全くの売れない画家であった。彼は、自信のあった絵も親友からけなされ、絵の買い手もなくて、毎月の家賃を払えないほど苦しんだ生活を送っていた。それでも彼は叔父のお金を借りて絵を書き続けた。またいろいろな女性に求婚するが、いつも拒絶され、服毒自殺をはかったこともあった。33歳の時、同室の友と激しい喧嘩があり、彼は自分の左耳の下部を切り落とす。そして自らを精神療養院に閉じこめる道を選ぶ。発作の恐怖に戦いながら療養を続けるが、精神の異常は治らず、療養院を出てパリで暮らし始める。その頃、彼の作品はようやく評価されつつあった。パリでの生活は少しは平和に進んだが、やがて古くからの親友との友情に亀裂が生じ、苦悶し、37歳の時、自らの胸部に向けてピストルを発射し、自殺。彼の人生は決して恵まれたものではなかったが、皮肉なことに、彼の死後になって彼の絵は人々の注目を集め、魅了し、現在に至るまで多くの人に愛されている。

最近僕が思うこと。
「絶望の淵に立たされた芸術家の、芸術に対する情熱はどこからくるのか」
今となっては有名なあらゆる芸術家が、生きていた頃は自殺未遂をするほど思いつめて苦しんだ人生を送っていた。僕は、芸術家がどのような人生を送ったかなんてあまり知らないけど、最近本を読んで強く感じたことがある。逆境に立たされた時でも、決してその苦しみに負けず、絵、音楽、文学などの活動をし続けるというそのバイタリティはどこから来るのか。「自分は世間に認められない」ということは、耐えがたい苦しみであると思う。世間が何と言おうが自分のやっている道を信じて突き進んでいくというのは、並大抵の人間では出来ないだろう。安易な道はいくらでもあるのだから、どこかで妥協を見いだし、そっちに甘んじてしまう。
だがゴッホはそんなことをしなかった。そう思ったはかもしれない。しかし自分の絵を描くのを死ぬまで止めなかった。そこに妥協はない。苦しんで、苦しんで、苦しんで、でも絵を描き続ける、この情熱。それってすごい。

ゴッホはなぜそんなことが出来たんだろう。自分の芸術が認められる日を、いつかきっと信じていたのだろうか。または自分の芸術を他人に認められなくてもいい、そう思って、生涯絵を描き続けたのだろうか。「音楽は、自分自身の外側にある何ものも表すものでない」そうストラヴィンスキーは考えていた。芸術家は自分の内面を極限に絞り出し、キャンバスに、五線譜に、その情熱をぶつける。

何のために?

そこに何があるんだろう。ベートーヴェンはどういう思いで「交響曲第5番」を書いたのだろう。難聴という致命的な病気にかかってT楽章のような苦難に耐えかねて、ついには遺書を書くまで至るが、やがて彼は4楽章のような壮大な歓びを勝ち取る。そこには、ただのサクセスストーリーで終わらせない、何か力強いメッセージがあるように僕には思える。

芸術家は、自分の内の秘なるものを表にあらわす。その芸術家の内面の、人間である故の何か。他人は、同じ人間として、その「何か」を鑑賞する。「同じ人間として」−−−−それがキーワードだと僕は思う。

芸術の対象は、その芸術家自身だけに終わらない。なぜ芸術家はexpressするのか。ex(外に)press(押し出す)。ゴッホが絵を描くのを死ぬまで止めなかった理由は、職業や金銭的な問題ではなく、自らに何か溢れ出る気持ちがあり続けたからだと思う。そしてそれが絵になる。"expressする"ってそういうことだと思う。自分の為に、他人の為にという思いはない。それをもう越えている。芸術家が芸術をexpressしたその瞬間に、芸術家自身を含めた客観的見方があってこそ、芸術は存在が生まれ、価値が生まれる。でも本当の芸術家っていうのは、もうexpressせざるを得ないんだろうな、とも思うけれども。だから芸術は決して自己満足に終わらない。終わるべきかどうかはその芸術家個人の問題であるが、もしかしたら、全く知らない他人を涙させる力を秘めているかもしれないのだ。それってすごい。

芸術家は大抵、自分と俗世間とを隔離して、自己の世界を追求しようとするが、世間一般の人間は、うまく俗世間と調和して生活している。普段何気なく他人と会い、話している中で無意識の中にお互いの存在意識が生まれ、ごく当たり前のように生活の中でexpressしている。彼らのexpressは、殆どが瞬間的に流れ去っていくものであり、大抵は無意味で非生産的であるだろう。だが、そのように俗世間の中にとけ込めない人は、自己内向的になり、周りと遮断された自分の殻に閉じこもる。自分を見つめ、追求し、考えるのだが、性格が内向的であるため、大抵は『山椒魚』のように実行を伴わない「愚か」な存在となってしまう。世の中には、自己内向性と世俗融和性を合わせ持っている人間もいるけれど、そんな人はごく少数だろうし、それがすごいとは全く思わない。

芸術家は、やはりすごい。何がすごいかって、その自分の殻に閉じ込めたエネルギーを爆発させて、何かを媒体にexpressする。何が何でもexpressする。そこが芸術家と呼ばれる人の偉大なところだ。「絶望の淵に立たされた芸術家の、芸術に対する情熱はどこから来るのか」。絶望だけではないかもしれないが、どんな境遇に立たされようと芸術家はexpressをやめない。やめられないのかもしれない。それで彼自身は幸せであるか、というのは問題でなく、それは、非生産的で怠惰に埋もれた生活を送るより、はるかに美しい生き方だと思う。

この話は、「芸術」という特殊な世界だけに収まらない。いくら自分の中で強い思い、信念、感情、決断があっても、あるだけでは意味を持たない。大事なことは、それをexpressすることだ。他人に認められる云々ではない。そんなの関係ない。強い信念があるなら、とにかく外へ押し出すべきだ。そうすることが、結局は自分を高めていくのだと僕は思うのである。
posted by かっしー at 01:05| 東京 ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月19日

JAZZが気になる

 最近よく高円寺・阿佐ヶ谷の古本屋を巡っているのだが、阿佐ヶ谷に品の良いジャズをかけているイイ感じの店がある。こないだ、かかっていた曲がとてもよかったので、レジの際に「誰のジャズですか?」と聞いたらレジのおばさんに「オスカー=ピーターソンよ」と言われた。それ以来、オスカー=ピーターソンのCDを何枚か手に入れ、今ではすっかりオスカー=ピーターソンのファンである。来日公演も行きたかったな。

 こないだたまたま通りかかったのだが、新橋の路上で演奏していた2人(ドラムとキーボード)のジャズも最高に良かった。集まって聴いている酔っ払いオヤジどもはノリが良くて、結構盛り上がった。ジャズは生に限る。即興の、あの微妙な駆けひき。その場の空気を共有している感覚。だから、ジャズのCDを買うのはあまり好きでない。もうCDの中に固定されてしまった音楽なんて、最高につまらない。そこにはもうあのスリリングさがない。まぁでももう一度聴きたくなるからCDは欲しくなるんだけどさ。で、CDを何度も聴いて、覚えてしまったりするともっと最悪。自分が覚えている通りの音楽がスピーカーから流れてきたって、全然おもしろくない。これはジャズ以外にも、たとえばクラシックでもそうだな。初めて聴く時の、あの意外性に満ちた興奮が好きだ。金もないのに、ついつい「生」の演奏会や舞台に足を運んでしまうのは、それがあるからだろう。
posted by かっしー at 03:42| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日常生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月18日

舞台「胎内」

 三好十郎という人が1947年に書いた作品「胎内」。この舞台があまりに良かったので、2回も見に行った。(10/7 14:00、10/16 18:00)新国立劇場は、学生当日券は半額だからね(^^)

 警察に追われている男と、その連れの女、元日本兵でやさぐれた男の3人が、変な巡り合わせで突然防空壕の穴に閉じこめられてしまう。死が目の前に迫ってくる中で見えてくる、人間の本性。普段の生活の中での偽りや、虚栄、排他感情がむき出しになる。生きる自信を失い、途方に暮れていた元兵士の男が、だんだん生きる自信を回復していき、「人間はいいものだ……」と最後に言い残して死んでいく、その言葉が何よりも切なかったし、リアルだった。誰もが、偽りの中で、それにあまり気づかずに生きている。「それでいいんだよ」と元兵士は言う。それは幸せなことかもしれない。でも、精神の極限でそれに気づいてしまった人の死は、悲痛さにあふれる。「死」という非日常的なものをここまでリアリティーの中でえぐれるのは、演劇ならではだと思った。これが映画や小説では、最後の死んでいく時のかすれ声や、妄想に震える影に、身震いできないと思う。生ならではの迫力。しかも小舞台で間近なのがいい。これぞ、演劇。

 ちょうどこの前、鴻上尚史「トランス」という戯曲を読んだ。高校同級生の男女3人がたまたま会う。その中のひとりの男が精神的におかしなことを言い出すのだが、実は3人とも妄想の世界に生きていて、誰が本当のことを言っているのかわからない。みんな狂っている。でも、それはそれで幸せなことだ、という締めくくりで、この戯曲は終わる。この戯曲の人物は、妄想を抱えながら生き続ける。別にそれでいいんだ。「あなたは私にとって大事な存在」というのは、たとえ妄想の世界が違っても、変わらないことだから。「胎内」を見て、「トランス」の中のそんな言葉を思い出した。人それぞれの世界は精神的に違っても、たとえ閉じこめられて外の世界とは隔絶されても、「人」を求め続ける、それが、結局はたどり着いてしまう幸せなのかと思った。
posted by かっしー at 01:02| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月15日

新約聖書をギリシア語で読む

 今期は必修が2コマしかないし、もう単位は足りているので、授業数は少ない。今学期は「語学の学期」と銘打って、ガリガリ語学をやります。

▼ 古典ギリシア語は、前学期の文法初級は「不可」だったくせに、後期初級文法もやらずに一気に中級へ飛んで、”ギリシア語で新約聖書を読む”という授業を取ってしまっている。受講者は4人。予習も大変で、毎回持ってくる本や資料も半端なく重いし、とにかく非常にキツい授業なのだが、先生がとても優しい方なので、頑張ろうと思う。新約聖書をその当時の言葉で読めるというのは、なかなか感動です。マタイによる福音書を少しずつ読んでいます。でも古典ギリシア語って、語幹がどんどん変わるから、まだ辞書すら引けないんだよね。。

▼ フランス語中級という授業に行ったら、それも学生は4人しかいなくて、とても楽しい。こないだはボードレールの詩を読んだ。フランス人の、フランス人によるオールフランス語の授業だが、とても和気あいあいとやっている。ルーマニア留学生と友達になれた。

▼ ドイツ語は独学でやるぞ!
posted by かっしー at 12:39| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日常生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月13日

あまりの語学力のなさに落ち込む

organ

 僕は「パイプオルガン同好会」というサークルにも所属していて、時々駒場のパイプオルガンを弾いている。今日は駒場で、プロのオルガニストを呼んで年に2、3回行うパイプオルガン演奏会があり、そのサークルの関係で会場整理などのお手伝いをした。プログラムは、メインは少年から大人までの男声合唱で、時々オルガンという感じだった。非常にすばらしい演奏で、合唱の透き通った美しさに心が洗い流される思いだった。

 さて、その演奏会の後、ルソンヴェール駒場で打ち上げパーティが催された。ドイツ人の合唱団が40人程+先生方+手伝いの学生というメンツ。ドイツの方は非常に英語がお上手なので、たくさんの若いドイツ人とお話しすることができた。子どもの中には英語があまりわからない子もいて、「Sprechen Sie auf Deutsch.(ドイツ語で話そうよ)」とか言われたが、僕はほとんどドイツ語は出来ないので、「Ich bin traurig.(ごめんね) but french is OK(でもフランス語ならいいよ)」とか調子に乗って言ったら、「Je aussi parle en francais!(僕もフランス語できるよ!)」とか言われちゃって、小学生のガキんちょにフランス語で怒濤の勢いで話しかけられました。当然わからず。僕はフランス語で本当に片言しか言えず。でもなんとか会話は成立し、僕のフランス語はさんさんたるものではあったけれど、日常生活においてデビューしたのでありました。その子どもは8歳の時までフランスのニースに住んでいて、フランス語とドイツ語は堪能。英語とスペイン語を学習中だそうだ。ヨーロッパって狭いんだね。いやぁ、できねぇなぁと思い知らされた夜でした。ドイツ語ももっと真面目にやっときゃよかった。でも、明らかにここ何ヶ月かは、こうして日常の一コマで外国語を話す機会が増えてきた。楽しいね、こういうのは。こういうのをモチベーションにして頑張ろっと。
posted by かっしー at 23:51| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日常生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

世界のオザワはスタジャンを着ている

 6限の教職の授業が終わって帰ろうとした時だ。井の頭線のホームで渋谷行きを待っていた。電車がホームに来て、ドアが開くと、なんとそこに世界的有名指揮者、小澤征爾が立っていた!僕とばっちり目が合い、僕はすぐさま「あ、小澤征爾だ!」と思ったのだが、オフの時に電車の中で話しかけられるのも嫌かなと思い、結局声はかけなかった。でもあれは間違いなく小澤征爾だった。薄っぺらのアメリカ国旗のついたスタジャンを着て、いつものように頭は鳥の巣。小柄な背丈と、ぴしゃっとした背筋。どこかひょうきんに見える表情。『ボクの音楽武者修行』の青年、サイトウ・キネン・オーケストラの指揮者、どこまでも自然体でインタビューに答えるおじいさん。あー、小澤征爾だ。スタジャンで井の頭線なんか乗っちゃって、ほんと飾らない人だ。パッと見た時は、え、なんであんた井の頭線なんかに乗ってるんすか?って感じだったが、いるんですね。びっくり。今調べてみたら、ウィーン国立歌劇場の日本公演で指揮者として来日しているらしい。N響も今度振るらしいね。おおお。

 有名人に会ったら、何でもいいからとりあえず「サインしてください!」というのは僕は好きでない。サインに何の意味があんの? 高く売るの? 自慢? そんなことより、会えたことだけで喜びだなぁ。

 でも、「頑張ってください」って声くらいかけてみればよかったかなぁ、と今さらながら思ったり。
posted by かっしー at 01:20| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日常生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月07日

村上春樹『海辺のカフカ』

 大きく分けて2つの話が同時に進行しながら物語が進んでいく。家出した15歳の主人公と、知的障害のある50過ぎのおじいさんであるナカタさん。その2つが微妙に重なり合いながら、あるひとつの方向へ収束していく……のかと思ったら、最後はやはり春樹ワールドで、そんな推理小説みたいに「謎が解決して納得!」という方向には行かず、摩訶不思議な世界はそのまま形を残したまま、それよりも少年の再出発へと話は進んでいって物語は終わる。「そうだよな、春樹の作品にオチを期待している読者はいないわな」とは思ったが、今回は謎が膨らみすぎた。はたして少年の父親はジョニー=ウォーカーだったのか、佐伯さんは少年の母親だったのか、さくらは少年の姉だったのか、ジョニー=ウォーカーの猫殺しは何だったのだろうか。空からイワシやヒルが降ってくるとは。最後の怪しいヌメヌメの生き物(?)とは……。挙げていったらキリがないが、そんな真偽も気になりつつ、でもそれはどうでもいいんだなと思いつつ、読み進めていった。「メタファーだ」というセリフが何度も出てくるから、このような奇怪な事件も何かのメタファーなのかとも思って思いを巡らせていたら、どうもそうではなかったらしい。仮説は仮説として、可能性はあくまで可能性でしかないという奥ゆかしさを秘めたまま、物語は終わる。それはそれでいい雰囲気の時もある。しかし、今回自分が感じてしまう「謎」は物語の根本のところを提供してくれない。少年は「父殺し、母(そして姉をも)を犯す」というオイディプスのような予言を受けるが、これが必然性を持ってそうせざるを得ないような状況の中で遂行されていくのではなく、ただ少年の気まぐれで唐突に起こっていったような感じで、取ってつけたような自立した大人への通過儀礼的な要素でしかない気がするのだ。脈略がないという点も「シュール」と言えばシュールなのだが(そしてまた「そこがいい」とも言えるのだが)、春樹がなぜオイディプスを踏襲しようと思ったのかが全くわからない。この点は、物語の本質的なものに迫ろう迫ろうと突き進んで読んでいく自分に対して、その読みが間違っているのか、そもそも物語の本質的なものなんてないのだから気にしないでいいのか、どちらかだと思う。また、少年のナイーブな心と佐伯さんの関係はまだいいが、父親殺しはほとんど記述されていない。そして、ナカタさんの存在は、ただの少年が入り口を入るという上での媒介的なものでしかないのなら、なぜ同レベルで話が語られていくのか。そして結局ナカタさんの話の結末に幾ばくかの物足りなさを感じてしまう。

 ストーリー全体の流れにはどうも心が動かされなかったが、ぐいぐい読んでいくことができた。それは、文体と随所に出てくるエピソードがおもしろかったからだ。

 まず、言葉が読みやすく、きれいである。まるでよどみなく涌き出てくるかのように、自然な言葉がつづく。ときたまそれは編集された映像として頭の中で想起されるような、美しい描写と流れがある。また、本文中にも「メタフォニカル」という言葉が何度か登場するが、そのメタフォリック加減も美しい。春樹の作品は何本か読んだが、この作品ほど文体の美しさを感じさせられた小説もなかったかもしれない。

 自分が気に入ったのは、星野青年である。「おれっち」と自分を呼ぶトラックの運ちゃん青年だが、これがおもしろい。何気ないところでナカタさんと会い、彼に自分のじいさんの影を重ねてナカタさんに付き添うのだが、そんな中で彼はふとベートーヴェンの音楽と出会い、またはふとヘーゲルの言葉を聞き、ふとトリュフォーの映画を観ることなる。すると、週刊誌しか読まない普段の生活から、何かそこに新しい風が巻き込んでくる。それが、いい。こういうギャップは好きだ。自分がベートーヴェンやトリュフォーが好きだからこういうことを言っているのでない。とにかく個人の志向性は何ににも捕われず自由であって、その開放感が気持ち良い。

 また、大島さんがフェミニストの2人をやりあげる場面もおもしろい。まさに教養のある大島さん。ああいうふうに頭がいい人になりたい。知識を、自分の骨や肉として、生きるために使える人。自分もフェミニズムに抵抗感を感じていることもあって、この場面は非常に痛快だった。

 とにかく、読んで楽しい本ではあった。しかし、最後は「おい、これで終わってしまうのか」という物足りなさを感じざるをえなかった。現実から乖離しているような浮遊感覚を味わうのは春樹作品の醍醐味だろうが、浮遊したあと、どこへいくのか。そこになにか一筋の光がほしい、と思った。
posted by かっしー at 01:38| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月05日

お茶を愉しむ

chasen 星岡という割烹の茶事に行ってきた。

 夕去りの茶事という。午後4時から始まり、だんだん薄暗くなっていく中でその光の変化と和蝋燭の明かりを楽しみながら、懐石料理をいただき、中立ちを挟んだあと、濃茶、薄茶と続く。ちょうど十五夜の夜で、中秋の名月という特別な日だった。玄関の書に始まり、床の間や茶道具、掛け軸まで月がいたるところに出てきた。

 行く前に、岡倉天心が海外へ茶道を紹介するために英語で書いた「茶の本(The Book of Tea)」を読み返してみた。その中の「(茶道は)精神の幾何学である、宇宙にたいするわれわれの比例感覚を定義するが故に」(It is moral geometry, inasmuch as it defines our sense of proportion to the universe.)という言葉が印象に残った。天心の言う「精神の幾何学」とは何だろうか。それを考えながらこの茶事に臨んだわけだが、「なるほど、"幾何学"とはよく言ったものだ」と妙に納得させられてしまった。自分なりの解釈はこうだ。「幾何学」と聞くと、三角や四角、円、六角形など、算数や数学でやったような図形を想像する。しかも、それらが重なり合っていて、円の中にそれに接する三角形があったり、六角形の対角線が何本も引かれていたりするような、少し複雑な図形である。そのような数学の問題を自分は幾度となく解いてきたから、幾何学と聞けばそのようなイメージが出てくるのだ。そして、茶道とはまさにそのような重なり合った図形なのである。ひとりひとりが円や三角、四角などの固有な図形を持っていて、それらがせめぎ合い、ときに融和し、点が重なり合ったり線が交わったりして、ひとつの複雑な図形を作り出す。亭主と客の間の緊張感。いつも微妙に動いている図形のいくつかが点と点をひとつの重ね合わせるような、その僅かな気遣い。難しさ。そのバランス。自己主張するもなく、されるもなく、でも”自分がいる”という空気は世界に対して放出されていて、そして他の人の空気も敏感に感じてしまう。そこの研ぎすまされた感性。全てを受け入れてしまうような寛容な心。そういった大きな大きな雰囲気に、言葉を失い、ただその静謐な戦いの場に無心で身を浸しているばかりだった。和蝋燭の揺らめく光、夏虫の音、炭が焚ける響き。自分の心臓の鼓動が、まるで土の下からつながって鳴り響いてくるような感覚であった。

 茶道は好きだ。決して単なるママゴトではない。深さがある。いいお茶を立てて人を迎えられるような人になりたい。
posted by かっしー at 02:50| 東京 ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 趣味もろもろ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。