2004年11月27日

気になる人 モーリー=ロバートソン

 モーリー=ロバートソンという人がいる。

 ジャーナリストなんだろうか、あるいはミュージシャンか、物書きと言うべきか。非常に曖昧で何やっているかわからない人。東大中退でハーバード卒という輝かしい学歴を持っていながらも、定職に就かず独特の創作活動に打ち込む40代前半の日米ハーフ。

 なぜ僕が彼を知っているのかというと、J-WAVEでパーソナリティとしてラジオをやっているのだ。日曜の午前5〜6時という、誰も聞いていないような辺鄙な時間なのだが、これが非常に面白い。内容は、お堅いといえばお堅い、ジャーナリズム。ひとつのテーマを取り上げて、その歴史を掘り出し、これからを探る。たとえば、こないだは日本でのネットによる集団自殺を取り上げて、自殺率と国の関係、韓国における同様の事例、なぜ自殺をしてしまうのかという考察をしながら、「死」を隠蔽し、ひた隠しにしてしまう日本社会を批判していた。これを聞いて、戦後を代表する思想家・藤田省三が言う「『安楽』への全体主義」という主張を思い出した。高校3年時に教科書に載っていて読んだのだが、高度文明の中で「安楽」を追い求めるあまりに不快なものそのものを除去してしまい、そのために喜びまでも失われている、という主張だった。非常に示唆にとむ文章だと思う。

 さて、モーリーの話に戻るが、実は僕は、彼のインタビュアーをやったことがある。というのも、駒場のWEBマガジンを作ろうというゼミの企画で、僕が彼をリクエストして呼んだのである。モーリーはネット先駆者だったので、それについて、またジャーナリズムの裏の世界をいろいろ話してくれた。人前でインタビューをするのは、いざやってみると非常に難しい。話をしっかり聞きつつ、次の質問でその話をいかに発展させるかということを頭フル回転で考えていなければいけない。次の質問が思い浮かばずに数秒沈黙してしまったりもしたが、徐々に慣れてまぁまぁうまくいき、本人とも話せて感激だった。でもモーリーはやっぱりどっかぶっ飛んでる、と確信した。なんだろう、頭はとっても良いんだけれども、普通は想像しないようなところから話を返してくる、というか。

 興味ある人は、彼のラジオを聞いてみてください。
posted by かっしー at 17:27| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日常生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月16日

おじいさんの居場所

 高校を卒業してすぐ、一人旅をしたときのことだ。宿の予約もしない貧乏旅行だったため、その日は米原駅のホームに野宿をすることにした。待合室の中とはいえ、3月上旬、寒い。ホッカイロを体に貼って、早めに硬い椅子に横になった。しばらく寝つけずにいると、終電が終わって、怒鳴り声が聞こえてきた。見ると、年老いた男性が駅員さんに引っ張られ、怒られている。「ここに来たらダメだと何度言ったらわかるんだ」という声で、その男性がホームレスの人だとわかった。やがて、その男性は僕と同じ所に連れてこられた。70歳くらいだろうか、灰色のジャンパーに薄汚れたズボン、全体的に黒ずんだ皮膚。ホームレスという存在を横目で見ながらいつも通り過ぎていた私は、その陰鬱な姿をまじまじと見た。しばらくすると、おじいさんと僕の2人きりになった。僕が声をかけたら、気さくにいろいろな話をしてくれた。歯がない、食べ物がない、金がない、一日中電車に乗って暮らしている。あまりに自分とかけ離れた生活に、唖然としてしまった。タバコをやめられずに、駅で吸い殻を見つけては拾って吸っているという。そのせいで肺が悪いのだろう、一晩中咳が絶えなかった。

 そこまで孤独に、社会から切り離されて生活していると、自分は何のために生きているのか、という問いに苦しめられると思う。おじいさんの生きる居場所はどこなのか。何も持っていない、誰もいっしょにいないが、自分の過去だけは背負っている。その唯一の持ち物である「過去」に身を寄せて生きているのかなと思った。と言うより、それしか思い当たらなかった。よく「希望が大事だ、未来が大事だ」なんて言うけれども、そんな居場所もありうるし、進歩的ではないにしても、おじいさんは生きているんだ、と強く思った。

 おじいさんは始発の姫路行きに乗って行った。車窓から遠くを見つめる姿が印象的だった。


(これは浪人当時、論文模試で書いたテクスト)

付記:この「おじいさん」の生き方は、『ニューシネマパラダイス』のアルフレードが言うような、過去を振り返らずに現実や未来を直視する生き方ではない。そしてそれは前進のない・向上心のない生き方であると言える。でも、それでも僕は、おじいさんが現に生きている、という事実を否定できなかった。おじいさんの生の意義を否定することは、非常に心苦しかったし、悲しかった。その気持ちは今もよく覚えている。本当はおじいさんにタバコを買う金を迫られたりして、怖かったし、一睡もできなかったのだが、非常に印象に残る夜だった。
posted by かっしー at 03:40| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月15日

映画『ニューシネマパラダイス』

 いい映画だった。本当に観てよかったと思った。こんな映画に出会えるのは久しぶりでうれしくなった。

 たくさん書きたいことはあるのだが、ひとつ印象に残ったことを取り上げれば、それは映画技師のアルフレードが、息子のように大事に思う青年トトを突き放すところだ。「おまえとはもう会わない」「村には帰ってくるな」「お前が見た映画とは違う。人生は、もっと困難なものだ。行け・・・・ローマに戻れ」などの言葉である。長年映画館の映写室で語り合った仲だったが、アルフレードのこの言葉によって、トトはローマで生活を始めることにし、2人はもう会わなくなる。母親が何度も電話しても、トトは連絡がとれず、村には帰ってこない。

 なぜ、アルフレードはトトに対してこのような言葉を言ったのだろう。アルフレードは決してトトを見放したわけではない。トトを肉親のように愛し続けてはいたけれども、愛するが故に、トトのことを思うが故に、トトを突き放した。そこに、逆説的ではあるが、深い愛情がある。母親にはそのことができない。トトをいつまでも自分の連絡が付くところ、手元に置きたがる。でも、最後の子育てというのは、子を巣立ちをさせること、突き放すことなのだろう。それが、僕にはうれしかった。実際に実家を出ろと言ってくれた親に感謝したくなった。

 アルフレードの言葉は、まるでノスタルジーに浸ることすら拒むように、力強く響く。ノスタルジーや映画の世界に浸っていては前進しない。思い出は、そのうちに大切に大切に取っておくべきものではあっても、それが拠りどころの全てになっては、未来がない。映画は、そのうちには夢や希望があっても、現実がない。村という閉鎖空間、映画という虚構空間から、そこに浸りきらずに現実や未来を直視する力、その力強さを、アルフレードの言葉は僕に感じさせる。最後のシーン、壮年になったトトが昔のフィルムを観ながらまさにノスタルジーに浸る場面があるが、でもそこには、過去のみの世界が全面にクローズアップされるのではなく、それを超えた爽快感があるように思う。
posted by かっしー at 03:39| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月11日

オルテガ『大衆の反逆』

 受験勉強中に、小論文の模範解答にこの本の引用があって、気になって読んで出会った本。以来、自分のバイブル的な書物になっている。スペインの哲学者オルテガ=イ=ガセットによる『大衆の反逆』(1930)。彼は、社会を「真の貴族」と「大衆」というダイナミックなファクターに分けて考える。「真の貴族」は、自らに高度な要求を課す人々のことである。一方、大衆は「平均人」であり、諸権利を主張するだけで自らに頼むこと少なく、他の「すべての人」と同じであることに喜びや安堵を感じる人々のことであるとする。第1次世界大戦後のヨーロッパで、そのような「大衆」が社会の中心に台頭することにより、まさにファシズムは勢力を伸ばしていた。この本は、そのような情勢の中での未来への警告書である。

 浪人時代に初めてこの本を読んだとき、自分の思っていたモヤモヤを鋭い言葉として見事に打ち抜かれた感じがして、「いやぁ、まさに!」と非常に感動した。オルテガの、冷静沈着ながらも熱さに満ちた文体。ハイデッガーの言う「ダス・マン」と通ずる大衆堕落の告発。70年以上前に書かれた本ではあるが、まさに今もこの問題は究極的に深刻になっているのではないか。大衆は大衆として、社会や公共から分離し、常に自分中心の世界にしか考えが及ばず、なおかつ流行や消費の波に群がって同一化していく。自分は、もしかしたら、日本の社会はこの"大衆化"、”公共離れ”がほかのどの国よりも進行しているのではと思う。自分が常々取り組みたいと思っているのはまさにその”大衆化”であり、世の中をマスとして見たときの政治や公共のあり方の問題である。

 『大衆の反逆』は哲学書であり、社会科学の本ではない。というのは、いかなる切れの鋭い論説があっても、その根拠となるデータ(数値)が一切ないからだ。そのデータは社会からどのように写し取ることができるのか。そこも非常に大きな問題であり、そうなると社会心理的な方法論も重要であるだろう。必然的に統計学も必要になってくるかもしれない。また、この問題は、政治哲学(民主主義)とも非常に密接な関係性を持つ。紀元5世紀のプラトンの『国家』の中にも、既に、民主主義の中で努力せずに堕落する人間を非難する箇所があるので、ぜひそこを原文の古典ギリシア語で読みたい。さらに、オルテガやハイデッガーの主張を根本から理解するには、独自の「生」の哲学や、実存主義的思想においても深い勉強が必要である。こうやってこの『大衆の反逆』について書こうとすると、”自分のやるべきこと”が次から次へと吹き出してくるあたり、やはりこの本は自分にとって徹底的に立ち向かうべきバイブルであり、原点なのだろう。
posted by かっしー at 02:48| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月09日

21歳という年齢

 20代になって1年。感じたことを書く。

 強く感じるのは、「僕」という存在が、20年という歳月の中で形成されてきたこと。つまり、これからの自分はそんなに大きくは変わらないということだ。まず、身長が止まった。そしてある程度の性格や志向、癖、体質もわかってきた。声、しゃべり方、考え方、好き嫌い、etc。これからずっと、この自分と付き合っていくんだなと思った。もちろんそれらを変えようと思えば変えることもできるけど、うんと努力しなければ変わりにくいだろう。そういった、自分のソリッドな部分を最近強く意識する。

 そして、もうひとつは、自分の可能性を狭めていく/選び取っていく、という考え方だ。僕は今まで、ある程度偏差値の高い大学にも入って、自分のできる可能性をなるべく大きく広げようと生きてきた。でも、ここからは、自分が星の数ほどある可能性の中から、選び取っていかなければいけない。そうしないと前に進めない、そういう年齢になってきた。僕が文学部の倫理学専修に進むというのも、ひとつの「選択」であり、それは自分の可能性を狭めることになる。でも、それを恐れてはいけない。僕にはやりたいことがある。それがある限り、それを追求できる限り、僕はそれに向かって進む。「選択」も、そのための前進だ。
posted by かっしー at 04:18| 東京 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日常生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月02日

ボート関係者の皆様

「εργω」(エルゴ)は、古典ギリシア語で「やらなければならない大変な仕事」という意味でした。わーい。
posted by かっしー at 22:57| 東京 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | ボート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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