2005年07月30日

舞台「王女メディア」(ク・ナウカ)

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 とにかくすごかった。こんな演劇は初めてだ。

 設定は日本の明治時代。はじめに男が出てきて、並んでいる女の俳優を選んでいく。男は後ろにいて、声だけの出演。女は、能のように無表情で、前の舞台でその役を演じる。後ろでは、民族的な太鼓や笛、鈴の音。この音楽が、劇の雰囲気に合わせて激しく響きわたる。王女メディアは、自分の元夫への復讐のために自分の息子を殺す。話はあまりに悲劇的だが、「悲劇」という面はそれほどクローズアップせずに、美と迫力と、自立していく女の姿が強調される。そして最後には、男が女にやらせているというメタ演劇の構図が逆転する。今まで着物を着てつつましくお酌をしていた女達が、いっせいに着物を脱ぎ捨て、真っ赤なワンピースになって、支配的だった男達に逆襲する。「女」が「男」に支配されるという構図を、最後に1人の女として自立して復讐を遂げることで、見事に打ち破る。その情念とエネルギーはすさまじい。そしてさらに、そこにはもうひとつ、「日本」と「朝鮮」という構図も隠されている。主人公の王女メディアは、チマチョゴリを着ていた。支配的なものに対して復讐の念をあたためつづけ、それを昇華させる瞬間は、恐ろしすぎる美しさだった。

 演技しているのは全く無表情の女性である。女役でも、声は低い男の声。だから基本的に、見ていて役に感情移入はしない。それでもここまで圧倒され、心がいっぱいになるのは、圧倒的な美と迫力のゆえだろう。僕にとって、全く新しい悲劇だった。もしかしたら、能楽のスペクタクル性と似ているかもしれない。アリストテレスの言う「おそれとあわれみ」から「感情の浄化(カタルシス)」を得る悲劇ではなくて、圧倒的な美と迫力のうちに、畏敬の念と神聖な気持ちを呼び起こすものである。エイコス(筋)やロゴス(言葉・理性)でなく、パトス(情念)による演劇なのだ。それはまさに「生」でしかできない体験だった。当日券で滑り込んだけど、観てよかった。ちょうど行った公演にテレビカメラが入っていたけど、あれをテレビで観てもこの興奮は得られないだろう。

 「無表情」というのは本当に恐ろしい。瞬きもせず、口も開けず、人形のように無機質に動いていく。そんなことは現実ではまずあり得ない。観ている間ずっとそんな違和感と恐ろしさを感じ続けていた。そうしたら、最後カーテンコールに出てきた時に、がらっと変わって役者がみんな柔らかい笑顔で出てきてお辞儀をしていた。どこかホッとするとともに、にくい演出だと思った。
posted by かっしー at 03:35| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(1) | 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月29日

人間全体の「善」とは

 たとえば、今、インドである疫病が大流行したとする。それによって、すでに何億人かが死んだ。その病原体が日本に入って自分の身にふりかかる可能性があるかどうかは別として、今、そのこと自体は「嘆かわしいこと」であるのか、という問いを立てる。

 状況として、世界は人口爆発が起こっていて問題になっている。問題というのは、つまり食糧問題であり、貧困・衛生問題である。地球の耕地可能面積すべてで最も生産性の高い小麦を栽培しても、養えるのは100億人ほどであるという。この限界を前にいて、人口爆発は人間のある程度の生存をおびやかすものだと言える。

生物的な種の概念で言えば(というか本能的に)、人類の繁栄とその存続は「善」である。これは前提である。このことは「持続可能な開発」は善であると言われる根拠になる。

 とすると、人口が急増して深刻な食糧危機が訪れようとしている今、ある程度人口が減ることは、地球の開発状況にとっても、善である。

 そうなると、先の問い「人が大量に死ぬこと」は「善」になりえないか。死ぬのが自分かどうか、自分とは全く関係のない集団かは別として(自らの生の主観は入る余地がないものとして)。

 だが一般的には、このような死は「非人道的」とされ、「悪」とされ、「悲しい」とされる。これはなぜか。この「悲しさ」をどうにかして正当化できないか。

 個人の感情に頼ることを考える。「同じ人間として、無惨に死んでいく人間を悲しまずにはいられない」という倫理観が、この問いを「悪」にできるだろうか。否、できないだろう。なぜなら、この倫理観は全ての人間が共有しているとは限らない故、普遍性を持ちえないからだ。悲しみは人によって違うし、またそれは大概個人の中で終始するものである。人間の集団全体としての「善」はこの主張から導き出せない。

 新約聖書に出てくる「よきサマリア人」は、目の前の、道に倒れている人を助け、介抱した。悲惨な状況にあるのが目の前の人ならば、悲しい感情は湧くかもしれない。助けたいと思うかもしれない。目の前に溺れている人がいたら、何も考えずにすぐに助けようとするだろう。そうして助けることは、おそらく功利主義的に言っても「善」である。その人と近い位置にいるならば、後で思わぬ見返りが来るかもしれないからだ。おそらく閉じた狭い社会では、人を助けることは「善」だろう。情けは人のためならず。

 だが、問題は、現代の世界でどこまでが「目の前」なのかということだ。何千kmも離れた国とも、経済的結びつきはますますかたいものとなり、物的流通・人的交流は絶えず行われ、テレビやインターネットを通じて、向こうの映像や声を見ることができる。でもそれははたして多くの人にとって「目の前」の人なのか。思わず助けざるをえない他者なのだろうか。

 人間個人の思いの範疇に及ばないほどに、生活世界が拡大しすぎた。そこに、現代の様々な問題のエッセンスが横たわっているように思う。
posted by かっしー at 16:33| 東京 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月28日

映画「気狂いピエロ」(ジャン=リュック=ゴダール)

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 ストーリーはないに等しい。男と女が人を殺して、パリから逃避行する。愛と永遠。死と芸術。鋏で切り取られ、貼り付けられたような、断片的な言葉や映像、絵画。普段映画を見る時にはストーリーを追い求めずにはいられないが、そうしていくとわけがわからない。物語の「筋」はほとんど無視されている。そういうところからの「カタルシス」もない。女が死んだところで、悲しがっている男に感情移入もしない。なぜ男が青くペンキを塗るのかわからない。挙げていったらキリがない。そうだ、そんなことはどうでもいいんだ。とにかく、最後のシーンの海がとても美しい。空と海が融け合う映像は、「永遠」という言葉が重なって、吸い込まれていきそうだった。それだけで、僕は観てよかったと思った。

 女が歌うミュージカルのようなシーンもよかった。この映画、描かれ方がすごく自然なのだ。前後の辻褄は合わない時も多いけれど、そのシーンはなぜか躍動感に満ちている。そう思っていて、ちょっと調べたら、どうやらこの映画は全編シナリオ無し、即興演出で撮られたらしい。なるほど。その全体の構成もいい。明るいシーンもあれば、深刻なシーンもある。その場の空気を重たく定めようとしない感じは快かったし、観ていて全然飽きなかった。

 映画ファンなら避けて通れない、天下のゴダールである。でも、僕はそんなに感動したわけではなかった。むしろ観た後に残る疑問のわだかまりが苦痛ですらあった。といいつつ、忘れた頃に、また観たいと思ってしまうんだろうな。そしてまた思いっきりはぐらかされるんだろう。非日常。逃避。倦怠。死。美。愛。永遠。そんなもののどれかに心惹かれた時にでも。
posted by かっしー at 02:35| 東京 ☁| Comment(3) | TrackBack(2) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月22日

黒澤明『生きる』

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「仕事を休んでも誰も困らない」「生きているけど死んでいる」などと言われる男、渡辺という男は、役所の市民課課長であり、30年間無欠勤で仕事をしてきた。早くに妻を亡くし、ひとりで苦労して息子を育てるが、成長して結婚した息子は、最近は年老いた自分の遺産のことばかり気にしている。ある時、渡辺は突然医者から「胃ガン」と宣告される。「胃ガン」とは死を宣告されたと同じである。よほどショックで肩を落とし、自分が何のために生きてきたか、何をしてきたかをとうとうと振り返る。そして、せっかくなら貯めてきたお金をパアっと使おうと遊びにでかけるが、どんなに騒がしい場にいても、やはり死ぬというショックは消えない。ひからびたような役所の職場を離れ、玩具の製造工業に移った女性は言う、「つくるのは楽しいのよ。課長さんも何かつくったらいいわ。」その話を聞いて、自分も何かをつくろう……と思い立つ。そして、誰もが受け身の役所において、ある場所に公園を作ってほしいという市民の要望か ら、自分から主体的に動いて議員や他の課の人を説得し、公園を実現させる。そして、最期その公園でパタリと死ぬ、という話。

 もう、本当に胸が熱くなった。
 「生きる」とは、まさに生を「自ら」全うすることであって、さらに「つくること」=創造することを通じて、より本来的に「生きる」ことができるのだ。裏返せば、それは、役所的な怠惰・受け身姿勢、ルーティーンの意味のない繰り返しへ痛烈な批判でもある。実存的だ。死を意識することによって、より「生」なるものへ、自分自身をより本来的な自分へ「投企」することができる。たぶん、黒澤明はハイデガーと気が合うよ。なんとなく。
posted by かっしー at 03:50| 東京 🌁| Comment(3) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月13日

チャリンコへの愛

 4日前に吉祥寺で友達と会っていて、ちょっと路上駐輪していたら、2時間後に自転車が消えていた……。夜だったので、こんな時間に武蔵野市が撤去するはずはない。あたりをぐるぐる探したけど、どこにも移動されていない。やばい、盗まれたか……と猛烈に凹んでました。ちょっと前に自分で大修理して、タイヤもチューブもブレーキワイヤーも取り替えたばかりだったのもあって、ここ数日は精神的にも肉体的にも経済的にも大ショックだったのですが、今日の昼間に再度吉祥寺に探しに行ったら、500mほど離れた駐輪場の端に置かれているのを発見! 行方不明になっていた我が子に会えた感動を味わいました。よかった。やっぱりこの子じゃなきゃ。マイチャーリーLOVE。ちなみに乗っている自転車は、LOUIS GANEAUのCASPER。2年前に購入。走行距離は計15000km。

 都内をチャリンコで駆けめぐるのは、本当に楽しいのだ。みるみるうちに景色が変わっていって、次々と知っている街並みに出くわす。実家に住んでいた頃は山手線内なんて電車でしか行かないから、たとえば有楽町なら有楽町という点でしか街を知らないんだけど、自転車を乗っていると「実は有楽町と築地は近いんだ」「ここを抜ければ半蔵門に行くのか」なんていう発見があって、点と点がつながれて東京を征服した気になるのです。こないだ寮の先輩にバイクの2ケツをさせてもらってラーメン食いに行ってバイクの爽快感も味わったけど、いやー、あそこまでのスピード感はいらないんですよ。適度な手軽さ。自分で操作できる安心感がいい。自転車は電車よりも早いし、気持ちよい。たまに雨などで電車に乗ると電車賃を払うのがバカらしくなってくる。車が多い時間帯は大変だけど、深夜のサイクリングは車も少なくて気持ちよい。そして、閑散とした中でのビルの夜景に感動したり、ホームレスのおっちゃんが必死に空き缶を集めている姿に出会ったり、飲みつぶれて路上で寝ているおじさんを起こしたりと、普段はなかなか見ない側面をのぞかせる。信号は周りの迷惑にならない程度に無視する時もある(そしてたまに怒られる)けど、僕の交通ポリシーは2つ。車道を逆走しない、歩行者にはやさしく。一日平均25kmくらい乗ってるけど、まだ無事故なのです。ええ、これからもゴールドカードでがんばります。
posted by かっしー at 04:21| 東京 🌁| Comment(3) | TrackBack(0) | 日常生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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