2005年12月16日

丸山真男「『である』ことと『する』こと」

 高校3年の現代文の教科書に載っていて、革命的な感銘を受け、それ以来僕の思想回路を虜にしている文章。ほんの30ページほどしかないが、何度読んでも新鮮さを感じさせる名文だ。

●要約●

 はじめに、時効について説明した「権利の上に眠る者」という話が出てくる。金を借りても、時効が来れば返さなくてよいことになる。なぜならそれは、金を貸した者が金を返してもらえる権利を行使することを長く怠った結果であるからで、そのように権利の上に長く眠っている者は民法の保護に値しないというのだ。「する」ことを怠って「である」ところに安住したままではいけない。この構図は、ありとあらゆるところで相似を見つけることができる。というのも、前近代から近代へ起こった歴史的な変革というのは、大きく言えば「である」価値から「する」価値への移行であるからだ。身分制度、家柄、年功序列などのBeの部分は崩壊し、代わりに機能主義、業績主義など、個人のDoの部分が謳歌する。まさに、近代においては「する」ことが問題なのである。そして丸山は、「する」価値重視へ移行しきっていない日本社会の甘さを痛烈に批判する。丸山がこの文章で最も言いたかったのは、民主主義についてだ。民主主義とは、お題目のように「民主主義」を掲げているだけでは全く民主主義の本質をなさない。国民の不断の努力によって守るものである、という主張が幾度も繰り返される。日本では、自分の生活と実践の中から制度作りをしていった経験に乏しい。外国の輸入品である「自由」や「民主主義」というものをただ礼賛するだけでなく、絶えず吟味し続けないと、いつのまにか言葉だけの空っぽになっている可能性もあるのだ。

 といいつつも、丸山は譲歩をつける。「する」価値一辺倒の危険性もほのめかしている。たとえば、学問や文化的創造(芸術活動)においては、休みなく生産「する」ことに価値があるのではなく、おそらく「価値の蓄積」という「である」要素が必要になるのだろうと述べている。また、(自分自身についての)教養というものも、結果よりもそれ自体で価値があるものだという、ジークフリード『二十世紀の諸相』の言葉を引用している。

 最後に丸山は、そのような民主主義を体現する担い手として、「である」ことにしばられずに政治参加「する」主体の像を描き出す。それは、たとえば文学者でありながら政治にも口を出すといった、政治に対して自覚ある態度を主体に要求するということだ。民主主義を実現するということは、「ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくこと」だ、と言って締めくくられる。

●感想●

思いつくままに、問いを立ててみる。

・「である」価値の崩壊によって「倫理」も失われた。「する」価値重視の近代社会における「倫理」とはどのような様相を呈するのか?

・究極的に「である」ことと「する」ことの違いを考えてみる。「する」こととは、何かを動かすことによって即物的に価値が生まれやすいもの。「である」とは、それ自体に価値がないもの、または、価値がすぐには生まれにくいもの。「価値」という側面の「わかりやすさ/わかりにくさ」によってこの両者は判断される。たとえば、僕がこのBLOGを書いているのは、ただ目的もなく「書いている」だけでは「である」ことだが、例えばカミナリの人に読んで理解してもらうために「書いている」ならば、「する」ことになる。この「目的」の付与という問題は、個人の主観の中で解決されていいものなのか?

・「である」ことの価値を、改めて考えたい。「する」価値が重視される今、学問や芸術の「である」ことを守る意義は何なのだろうか。「蓄積」という言葉を丸山は使っていたが、それは潜在的価値を含んでいるということか、またはそもそも「価値」という概念を含まないのだろうか。後者であるとすると、強いて言えば、それが存在すること自体のみに価値があるということになる。たとえば、歴史学は、現代・未来の諸問題に立ち向かうために追究される学問であれば「する」学問だが、大抵はそうではない。ひたすら史料を探して歴史的事実を追究する。そのような事実の蓄積は、それが存在すること自体に価値がある、と言えるだろうか。

・民主主義は、個人に相当の自覚(丸山の言葉で言えば「ラディカルな精神的貴族主義」)を要求するのだが、大衆一人一人がその自覚を持つとは到底思えない。民主主義以外で、うまくいく政治システムはないのか。もし、民主主義しか妥当な政治制度がない場合、民主主義に必要なそのような自覚は、人々の間にどう育てていくことができるのか。

●自分の夢●

この文章を読んでからずっと、「である」ことに終始する職業よりも「する」ことを重視する職業に就きたいと思っていた。実際に世界をいい方向へと変えていきたかったからだ。なので、固定的・没価値的なものよりも、流動的・生産的なものの方に関心があった。でも、最近、実は「する」ことばかりを見つめていては、小さなことしかできない、「する」ことよりも「である」ことの方が大きく世界を変える力を持っているのかもしれない、と思うようになった。「である」ことは、ごくたまに、大きく世界を動かす。というよりも、まず「である」ことが固定的に存在することによって、「する」という目的の基盤が成り立っているのだ。たとえば、ヘーゲルは、何のために「哲学」を追究したのだろうか。ヘーゲルの哲学には、それ自体の目的、機能や能力といった言葉は全くそぐわない。ヘーゲルの哲学は、没価値的な、存在論的な「である」ことだと言えるだろう。しかしそれは、「する」価値を強烈に意識するマルクスの社会主義思想の枠組みに大きな影響を与えた。または、マルクスに限らず、後世において様々な影響を及ぼし、それが国の制度、枠組みとなり、そして人々の生活の基盤となっている。別の例を挙げよう。憲法の価値というのは、まさしく「である」ことに求められると思うのだが、その憲法は幅広く国民の活動「する」基盤となってきただろう。憲法に限らず、法制度一般についてそう言うことができる。また、小説などの文学作品は、それ自体が何かの目的のために書かれたわけではないので「である」ことだと考えられるけれども、実際にたくさんの人々の人生の指針となり、何かを「する」際の価値判断の基盤となってきた。「である」ことは、それ自身も思いがけず、幅広く強烈に影響を与えることがある。

というわけで、最近は「する」ことよりも「である」ことを通じて「する」ことに貢献することに興味がある。例を言うなら、教育に関して何かをしたいと思った時、先生になって子供と直に接するのではなく、文科省に入って制度(「である」こと)を改革するような方向にいきたい。具体的には、"ジャーナリズム"というものに大変興味を持っている。ジャーナリストの仕事とは、膨大な情報(「である」こと)から、ある程度「する」ことを意識して抽出していくことだろう。そのつなぎ目の役をしたい、と漠然とそう考えている。
posted by かっしー at 04:41| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
わたしはこの「である」ことと「する」ことをよんで丸山かんが読者に何を伝えたかったのか理解することができませんでした。
難しいことを言っているようで、読んでいるのに自分の考えも全く出てこなくて困っています。
かっしーさんはこの「である」ことと「する」ことをよんで丸山かんが何を伝えたかったのか、そのことに対しての自分の考えなど教えてもらえないでしょうか
Posted by マグロ at 2011年02月26日 05:37
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