2006年02月15日

理屈の論理と感情の論理

 僕の友人に、ベジタリアンがいる。彼女はトルコに留学中に、屠殺場で豚が殺される現場を見た以来、肉は食べたくなくなったのだという。肉を食べずに何を食べているかというと、野菜である。肉の代わりに、野菜で栄養分をとり、大豆などで淡泊を補う。それはそれで大変健康な食生活である。ベジタリアンと自称する人達は、基本的に動物の肉は食べない。それは、生き物の命を殺してまで自分の食欲を満たしたり生命を存えさせることは、その人の倫理観に逆らうからである。

 このようなベジタリアンに対して、こう批判する人がいるだろう。「植物も生き物のひとつなのだから、植物を食べている時点で生き物を殺しながらそれを食べていることになるではないか」と。たしかに、植物も生き物である。命を殺して食べていることには変わりはない。ただ、植物まで食べないでいようとするなら、それはもう「よだかの星」になるしかない。そんな人生は選択せずに、大多数のベジタリアンは「動物の肉は食べない」というポリシーを守り通すのである。

 この論理は、どのように説明できるだろうか。
 最近よく思うのは、物事を判断する時の思考(論理)には、2つの種類がある、ということである。それはつまり、「理屈の論理」と「感情の論理」である。

 「理屈の論理」を使えば、ベジタリアンの論理は破綻している。なぜなら、「生き物の命を殺してまで食べたくない」という論理を、動物に対しては当てはめておきながら、植物にはそれを適応させていないからだ。しかし、「感情の論理」で考えれば、「動物の肉だけは食べない」というポリシーを正当化することができる。動物の肉を、そのベジタリアンたちは「感情的」に受けつけない、と理解できるからだ。つまり、動物の肉が何らかの原因で嫌いであり、または何らかの悪いイメージがあり、動物の肉を食べるとなると感情的に拒否反応がわき起こってくる。だから動物の肉は食べない。先に例を出したベジタリアンの友達も、トルコの屠殺場で豚が殺される現場を見た、という実体験に基づいている。そこでの強烈な印象から、感情の論理によってベジタリアンになったんだろう。

 最近、就職活動を少しやっていて思うのは、人と話す際に、違うバックグラウンドを持っていれば持っているほど、感情の論理は通用しないということ。そういう相手には、必ず理屈の論理で説明しなければならない、ということである。とあるインターンシップの面接でなんとなく「問題性を発見する過程が好きなんですよ」ということを話したら、「なんで好きなの?」としつこく繰り返し問われた。「なんで好きか」という問いは、感情の論理からしてみれば、愚問である。日常会話では、そんなバカなことは聞かないだろう。しかし、お互いに全く面識のない面接という場においては、話は必ず「理屈の論理」でなければならない。「なんで好きなの?」「いやぁ、好きだからです」という切り返しでは、相手は説得され得ない。好き嫌いにまで理屈の論理を当てはめて、自分の志向性の原因を深く追究しなければいけない。

 ただ、一方で「感情の論理」はとても愛すべきものだと思っている。感情は、人間にとってガソリンのようなもので、それがなければ動けない、大事な動力源だ。何かを評価する際、判断を下す際に、「理屈の論理」が先にあるか、「感情の論理」が先にあるかといったら、何とも言えないだろう。どんなに「感情」を排除して「理屈」でつめようと思っていても、「感情」が根底に響いていることはよくある。そういう「感情」に対する感性は大切にしていきたい。

そんなことを思う今日この頃。
posted by かっしー at 02:04| 東京 🌁| Comment(10) | TrackBack(1) | 日常生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
理屈の理論を使っても感情の理論を使っても、鹿島には早く艇庫に来てほしいです。
Posted by めっつ at 2006年02月15日 13:40
>好き嫌いにまで理屈の論理を当てはめて、自分の志向性の原因を深く追究しなければいけない。

おれはあんまりそうは思わないな。「なんで好きなの?」という問いに論理的な説得で答えるのが可能だとは思えない。たとえばベジタリアンが「トラウマ体験のため」みたいに部分的に「理屈の論理」に落とせても、その作業は終わりがない(数学の極限みたいなイメージかな)上にその成果は大して役に立たないようにおれには思える。
Posted by tommy at 2006年02月17日 05:37
かっしーさんへ。
こんばんは。段々暖かくなって来ましたね。
さて、誰しも「理屈の論理」と「感情の論理」を持ち、どちらがどれだけ勝っているかだと思うんですが、僕は限りなく「感情の論理」が勝っている人間です。普段はボンヤリですが、イザとなると激しく攻撃的になる性格。しかも、攻撃的になると急に「理屈の論理」の人になります(笑)数年前、外国に住む友人とやり合った結果、袂を分かちました。その友人はバッリバリの「理屈の論理」の人。学校で習い、本で読んだ事が全ての人。人から攻撃される事にヒドく怯え、また慣れていないと読みました(笑)
僕も「感情の論理」は愛すべきものと思っていますが、これって自己愛?(笑)かっしーさんはどっちが勝っているのでしょう?
遅くなりましたが、リンクさせて貰ってもいいですか?
Posted by ブノワ。 at 2006年02月17日 20:47
みなさん、コメントありがとうございます。

>めっつ
頭が上がりません。
今日行く予定だったけど、MTG時間が変更になったし
なんだかんだで、行けていません。
でも今から行くから許して。

>とみー
もちろん、好き嫌いはそれ以上説明できないよ。でも、原体験に遡って話せば、ただ「好きだ」「嫌いだ」を言うより説得力を持つと思うんですよ。より具体的にイメージされやすいというか、印象に残るというか。要は、コミュニケーションにおいては、理由が完全に説明できるか否かよりも、話として相手にどう印象づけるか、というところを重視しなければいけないなぁ、ということです。

>ブノワ。さん
ブノワさんが攻撃的になるとは、なかなか想像つかないですね…… いや、若造の僕が何を言っているんだという感じですが、感情の豊かな人ほど人生を楽しんでいる気がします。そういった意味で、感情の論理に忠実に生きられるのはすばらしいですよね。僕自身は、圧倒的に感情の論理です。そのために気まぐれで迷惑をかけているところもあるのですが……

リンク、どうぞお願いします。こんなBLOGで申し訳ないですが、こちらも貼らせていただきますね。
Posted by かっしー at 2006年02月18日 19:46
うん、なるほどね。
確かにコミュニケーションの場面では「分かる人には分かるでしょ」という態度じゃコミュニケーションを放棄してるに等しいから、そういう事も必要かもしれない。
ただおれが感じるのは、そうやって相手に印象付けるような説明を考えているうちに、自分自身説得されて元の衝動が変質し陳腐になりはしないかという危惧なんだ。実際にこういうことはありがちだけど、衝動→説得の順番が逆になってしまっては、それはまぎれもなく嘘だと思うからね。
長々ごめん。
Posted by tommy at 2006年02月19日 00:41
長々どうぞ。

うーむ、そうかな。
言いたいことはわかるよ。好き嫌いの「元の衝動」というのは完全には言語化され得ないものだから、もし説明するために言語化したら、そこで別の可能性が捨象されている、ということでしょ?その別の可能性、言語化されない曖昧模糊とした直感的感覚を大事にしたいわけだよね。うーん、なるほど。でも、僕がこうしてブログを書いているのは、その曖昧模糊をなるべく言語化するためなんだよな。言語によって自分を規定するためです。

何でもそうだけど、自分自身を完全には外に表象できないわけですよ。表出する時には、どこかで脚色が入り、迷信が入り、偽りが入る。それは、言語化する作業だけでなく、絵や音楽を創る過程だって、そうだろう。もちろん僕はなるべく偽りなくexpressするように心がけているけど、小さな偽りがあっても、どんどん自分を規定していくことを、僕はすすんで引き受けたいね。逆に、そうしなければ、何もできないから。
Posted by かっしー at 2006年02月21日 01:07
うん、よくわかるよ。
自分の曖昧な感覚を、偽りや脚色を覚悟した上で言語化なりして表現することは、その感覚自体をよりシャープにするし、その作業自体とても楽しいからね。議論とかは本来そういう作業を共同でやるべきものだと思う。

でも、俺はその作業はあくまで自分自身のためにやりたいんだ。自分の感覚をシャープにする目的でやりたい。そこに「相手に印象付ける」だとかノイズの様な目的が入ると、偽りの部分は拡大するし、そもそもその作業を自分自身が楽しめないと思うんだよね。
Posted by tommy at 2006年02月22日 03:12
なんか、おたがい、初めは「よくわかる」と譲歩しつつ、
「でも…」という論理展開で揃っているのが、きもいね。。

え、僕も自分自身のためにやってますよ。
「相手に印象づける」ため、という目的もありますが、
それは二次的なもんであって、まずは自分自身のためです。
「コミュニケーションにおいては…」という話を出したのが
わかりにくかったかな。
表現されたものは、ただ他人に向かうのではなく、
自分自身を(ひとつの他者として)印象づけるという面もあります。
あえて言葉にして、自分を信じ込ませる、ということ。
もちろん本当は「屠殺場体験」→「ベジタリアン」というほど
因果関係は単純じゃない、という認識はあるけど、
それ以外を言葉にできない以上、僕はその単純な論理を受け入れますね。
そういうスタンスの違い。
まぁ、シューカツをやってると嫌でも「他人にどう印象づけるか」というのを考えるし、単純な論理を欲しがるから、そのへんはスタンスが違うんだろうな。

あと、言語化や自己表現によって、本当に感覚がシャープになるかどうかは疑問。
Posted by かっしー at 2006年02月22日 04:32
張本人参上!気付くかしらん。

そうそう。私がベジタリアンになったきっかけは、とりあえず「屠殺場を見た」としかあのときは答えられなかったけど、それは、私になぜベジタリアンかと聞いた人や、一方でベジタリアンになった自分を理解できないもう一人の自分を錯覚させるための「いいつくろい」というのが正しいでしょう。人はそういうとりあえずの理屈でその場をしのぐ行為は生存力を強めますから。

そして、例えば、他にもその複合理由と考えられる「ダイエット」や「芸能人のまね」という理由より「屠殺場を見た」という世間一般で道徳的ととられうる(と、その時点での私が思っている)理由を述べたのも、その「場」が起こした現象です。無意識か意識か、なんだかの効果を狙ったものってことです、つまり。

そして、ベジタリアンになったことじたいも、その理由のどれかが(仮に)真の原因であったとしても、火の気のないところに火はつかないようなもので、ベジタリアン開始は潜在的に「私」という「場」の中にあったものがたまたまそれを機に始まったと考えたほうが正しい気がします。

と、わかりにくいね(TOT)
Posted by horinouchi at 2006年04月10日 20:47
「理屈の論理」と「感情の論理」。とても興味深いですね。
コーチングを職業とする私にとっても
考えてみるべきテーマです。
Posted by Shincha at 2009年10月03日 14:05
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理屈の論理の果てには感情の論理がある
Excerpt: なんだか最近TBするのが趣味になってきてしまった。すいませんTB先の人m(_ _)m 仕事する前にふとお見かけしたBLOG。 日想: 理屈の論理と感情の論理  この論理は、どのように説明できるだろうか..
Weblog: ひよっこエンジニアリング
Tracked: 2006-07-29 09:07
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