2006年04月22日

「やりたいこと」と「できること」

朝、寮の集会で僕が当番だったので、寮生の前で「就活と自分の方向性」の話をした。その中で、就職活動の胡散臭さについて、触れた。

就活で「自己分析」とかをやっていると、自分の言葉によって自分自身が定義されていくのがわかる。その言葉によってより強固な自分を得たというのは良い面だが、同時に、実際はそんな論理明快ではないのに…という抵抗感も感じる。たとえば、よく聞くフォーマットで「私はリーダーシップを取る人間です。なぜなら、大学のゼミでみんなを引っ張った経験があるからです」みたいなものがある。本来、その因果関係ははっきりしないものであるはずで、そんなに明快な論理で打ち出される性質のものではない。就活において、前後の文脈に沿わず、まるで決まりきっているかのように繰り出される自己PRは、あまりにも胡散臭すぎると日々感じていた。

それに対して、そのあと朝飯を食べている時に、寮の博士課程の先輩がこういう反論を言ってくれた。学問で論文を書く作業とは、自分がある限定条件を作って、暴力的なまでも、ぐいぐい自分の言いたい方向へ結びつけていくことが必要だから、就活でそういうプロセスが嫌だとか言ってると、学問こそ苦痛でしかない、と。

たしかに、その通りかもしれない。
僕は、まだまだ山に登り途中なので、自分が「言いたいこと」を新しく見つけて、論文を書く、という段階に行っていないので、正直わからない。いや、でも僕は反論したいな。学問は、就活に比べれば、まだ論理的な精緻さがあると思うんだけどな。たしかに自分の都合のいいように限定条件を設けて統計を出して、言いたいことへ持っていくのだろうけども、そこには数分の自己PRに比べれば、時間の余裕さと論理の整合性はあるからな。

学問が、自分に合うかどうかを判断するのは、難しい。
今回、僕は「できること」よりも「やりたいこと」によって道を選んだ。自分は器用貧乏なところがあって、それなりに何でもできてしまう。ただ、いつも「それなり」で終わってしまっていた。「それなり」で終わりたくない気持ちがあったから「やりたいこと」を選んだのだ。でも、そこでの自分の可能性を見極めるのは、修士の1年秋までで、修士に入ってからのその半年間が命だ、というアドバイスもいただいた。

とりあえず、僕は、今は何と言われようと、やりたいことをやる。
勉強しよう。
幸いにも、今僕は、勉強することが猛烈に楽しい。
posted by かっしー at 01:39| 東京 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
やりたいことと、できること、かぁ。
わたしもタイムリーに悩んでるよー。

得意なことは、理系科目かもしれないけれど、
好きなのは、人と接したり、おもてなししたり。
そんなこと。

だから、このまま薬学部で勉強して、
研究職とかに就くのが恐らく世間的に見て安定して評価の高い道なんだけど、
今の道いきなり思いっきりはなれて、
評価が全くわからないそっちの方面に進みたい気持ちもある。

で、正直まだ決心がつきかねる。
口でかっこいいこといくらでも言えるんだけど、
どうしても足踏みしちゃう自分がいます。

ぜひ今度かっしーと話したいよー!
Posted by ハル at 2006年04月22日 03:06
先輩の言葉、“論文を書く作業とは、自分がある限定条件を作って、暴力的なまでも、ぐいぐい自分の言いたい方向へ結びつけていくことが必要”っていう部分はこの上なく納得できるけど、学問の定義は論文じゃないでしょ。日本では確かに論文が重視されるのかも知れないけど。
私はかっしーの言うとおりだと思うよ。就職活動の自己PRの時間は限られてる。その時間内で、“私はこれだけあなたに採ってもらう理由の在る人材です”って相手を納得させなきゃいけない。リーダーシップ取ってきたけど、取りたくないと思う状況もあるなぁ…とか、自分の中で多少の矛盾があっても、それを出さないで相手を納得させればOKな、特殊な空間だよね。一方で学問は、好きなだけそれを突っ込んでいける時間がある。自分の矛盾、学んだことの矛盾点をより深くまで追求して、解き明かしていける時間があると思うよ。統計出して結論付けて、が今の時代の学問のベースになっちゃってるのかも知れないけど、そもそも学問って、単純に“知らないことを知ること”だと思うんだ。知らないことを知ることは、楽しいよね。それはもう遺伝子にそう組まれてるんだよね。いいんじゃない?本能のまま、知ることを大学院で思いっきり楽しんでみても。

やりたいこととできること。見極めは大事だけど、自分たちに何ができて何ができないかを判断するには、私たちはまだまだ若いと思う。スポーツとか音楽とか、才能が占める割合の多い分野でないかぎりはね。努力する才能、っていうものが無い人も世の中にはいるけれど、それを持ってるかっしーは、たくさんのことを努力次第で“できること”に変えられるんじゃないかって思うよ。

ごめんね、長くなった!
Posted by さゆり at 2006年04月22日 08:01
こんにちは、鬱な院生、まきこです。
やりたいことがあって、しかも学問においてはっきりそういうものがあって、かつそこへ進んでいける状況にあるというのは、何と幸せなことかと思います。

というのも、私はこの4月に院に入ったばっかりのこの時点でさえ、自分の中に矛盾を感じて、これが本当にやりたいことだったのだろうかと反芻する毎日で、自分の思い描いていた人生曲線から徐々に自分が外れ始めているというのを感じて呆然となってしまう。
論文はやっぱりどこでも大切で、自分がはこのことに対してこう思っている、こんなことがあるはずだ、ということを人に伝えないとその存在意義が問われるでしょう。
で、それには先輩のおっしゃる通り、自分の言いたいことにぐいぐい持っていく力がどうしても必要で、でもそれをやろうとすると2年間はあまりにも短い。
私もこれからの半年間が勝負だと思っているけれど、それで可能性を見極める云々、というよりは進路設定の勝負なのです。
それに、2年間ぽっちで学のおもしろさの真髄なんか分かりっこないもんね。

私の場合、今やっていることがそのまま自分のやりたいことに合致しているとは言えないので、苦しく思うこともあるのだけど、その時その時できることを重ねていくことで成ってくることもあると思うし、今関わっている分野には絶対必要なことであるという確信があるので、もうしばらくふんばってみるつもり。

まぁ今度飲みましょう。悩める学友の会。
Posted by makiko at 2006年04月22日 13:38
>ハル氏
じゃあ、ハル氏は「できること/得意なこと」で
道を選んだわけだね。
そうなんだよ、口では格好いいこと言えるんだよね。。
そのあたりは本当に怖いところで。
やっぱり自分で自分を誤魔化している人間は格好悪いからね……
ほんと、今度会ってめっちゃ話したいわー

>さゆり氏
うーん、学問の定義は、いかに新しい見地の論文が書けるか、じゃないか?
大学の学問の場には研究と教育という2つの面があって、日本ではかなり教育という面が軽視されているという話は聞いたことがあるけど、アメリカではどうなのかな?

まぁ「知らないことを知る」というのは純粋に楽しいんだけど、
その道で食っていけるか、というシビアな道で生き残るために

それに加えて、嫌でもやらなければいけない気迫が必要になるんだよね。
でも、たしかに仰るとおり、
そういうプレッシャーに打ち勝つことばかりで
純粋に自分が「やりたいこと」として楽しめているか、ということは
いつも念頭に置いていたいですね。
ありがとう。

>makiko氏
そうそう、「修士の初めの半年間が大事だ」と書いたのは
僕も同じく進路設定の勝負であって
秋から就職活動が始まるからね。
もし博士課程へ行かないということになれば、
そこで就職活動をしなければいけないから。
ふんばって。
応援してるよ。
悩める学友の会。
ただ、悩んでいるうちは努力できないよ。
努力が必要な時は、何が何でも決めてしまうべきだと思う。
上野に来てるんだもんね。飲もう飲もう。
Posted by かっしー at 2006年04月23日 00:37
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