2007年02月01日

NODA・MAP『ロープ』

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NODA・MAP『ロープ』を見てきた。2007/1/31昼(千秋楽)@シアターコクーン
例の如く当日券主義で、立見3500円。

こんなに強烈な舞台を、ぼくは観たことがなかった。
心臓に五寸釘でごんごん打ち付けられた感じだった。
ドタバタコメディと思いきや、かなりの社会派。
どうしようもないくらいの悲痛な現実をこれでもかと見せつける。
確実に「生」の演劇でしか出来ないリアリティがあった。

戦争を扱った作品はいくらでもある。そのほとんどは、悲惨な戦争描写を執拗に描くことによって、「戦争って、重いね。ひどいね。残酷だね」ということを訴えかけてくる作品だ。映画にしても本にしても舞台にしても。少し考えてみれば、戦争には全てを吹き飛ばして圧倒させるような生死の賭けがあるのだから、それを映し出すだけで心に迫るものがあるのは当然のことだろう。主題として扱いやすいと思う。でも、その地平からさらに、もっと深い本質的なところまで迫ってくるような、良質な戦争作品もある。『アンネの日記』『戦艦大和の最期』などの本は、戦争という極限状態の中での「人間」の本質的な部分を考えさせるし、やはり何度読んでも新しい発見がある。または、ただ戦争の悲惨さを描くだけではなく、その暗黒たる現実の中で、かすりとるように光り輝く希望を持たせてくれる作品もあるだろう。チャップリンの『独裁者』がまさにそうであると思う。今回の野田秀樹の舞台は、戦争の悲惨なリアリズムを、執拗なまでにありありと感じさせるとともに、最後にわずかな希望を託されるような、そういった良質の作品だった。

舞台は、大きなプロレスリングの前で進められていく。題の「ロープ」とは、プロレスのリングのロープのことだ。プロレスラーは、ロープに打ち付けられるとその反動で戻ってくるのが通例だが、本当は戻らずに止まることもできるだろう、というツッコミから始まる。でも、なぜかしっかり戻ってくる。理由は、プロレスというものはストーリーが全て決まっている「ヤラセ」であるからだ。リングの中では、特別にそのことが許されている。暴力をしても暴力にならない。ロープの中は、ひとつのショーとして特異な空間なのだ。そのロープの範疇が、いつのまにか現実にまで拡大されていく。不法滞在の外国人との偽装結婚という「ヤラセ」、イラク戦争の大量破壊兵器という「ヤラセ」などを絡めながら、「なかったことを、あったことにする」という事態がますます正当化されていき、最後には「ヤラセ」であるはずの試合が、シナリオなど関係なくみんな本気になっていていて、リング上には銃声が飛び交い、毒ガスがまき散らされ、どんどん暴走し、泥沼化していく。本当は誰もが止めたいと思っているのに、止められない。痛ましい、悲惨な状況がリングのロープの中・外関係なく舞台上で繰り広げられる。

そのプロレスはテレビに中継される。大衆はますます激しい戦いを観たがり、テレビ局は視聴率稼ぎに翻弄する。その試合の様子を実況するタマシイ(宮沢りえ)は「正義は我らにあり、正義は我らにあり」「これは正当防衛。正しい暴力です」とまくし立てて正当化していく。まさに現実が捏造(ヤラセ)されていく構図がここにある。そして、泥沼化したリングは、あっという間にベトナム戦争中に大量虐殺が行われたソンミ村に重ね合わせられ、その虐殺の細かな様子が、タマシイの言葉によって生々しく実況されていく……そんなストーリーである。

そんな現実の最中にあっても、人はまだロープの外に逃れる理性を持っている、という野田秀樹の信念が、タマシイの声としてストレートに響いてきた。野田秀樹からすればひねりも少なく遊びの要素もなく、あまりにシンプル、かつストレートなメッセージだと思う。それだけ伝えたいことがあった舞台だった。しかし、とはいったって、ひとりひとりの「理性」はあまりにも無力だ。あまりに悲惨で、しばし呆然としてしまうこの現実を前に、僕たちはどうすればいいのか。何ができるのか。どうすれば「催眠術」から逃れて、ロープに跳ね返されずに、とどまることができるのか。多くの人が散々考えてきて、それでもやはり無力に打ちひしがれてしまいがちなこの難問に、希望ある答えを、舞台を観ていくつか探したので、そのことをここに書くことで、この作品への自分なりの「応答」としたい。

まず思ったのは、「顔」のもつ力だ。ロープの中でも、敵は「覆面」であった。「誰かわからない」「相手の顔が見えない」から、恐怖のあまり「俺たちは正義だ」と同じ言葉を繰り返し、虐殺にまでいたってしまう。「顔」には、他人への暴力や憎悪をとどまらせる力がある。レヴィナスという哲学者が重要視したように、相手の「顔」を本当に知っているか、本当に「顔」を向き合わせて考えているかと、僕らは思い返してみる価値がある。たとえ戦場でなくても、普通の人間関係においても。

また、「引きこもり」という態度の力も印象に残った。ロープの中のヤラセに耐えきれなくなって戦場から脱走する兵士が描かれ、それが現代の「引きこもり」と重ね合わされるが、野田秀樹はそのようにあえて保留する態度に、理性としての可能性をかけているのだろう。ノブナガ(藤原竜也)の「引きこもり」は、ひとつの希望なのだ。一兵士がストライキを挙げることが平和の未来への可能性だ、というのはいかにもサヨクが喜びそうな話だけれども、僕の問題意識に近づけて言えば、本当に世を動かしているだろう知識人はどうあるべきかというのは別の問題であり、僕自身への課題として深く刻みつけられた。

あと、「幼子」に立ち返るということも大きな力だろうと思った。ベトナム戦争の脱走兵が、死ぬ直前の女性から生まれたばかりの幼子を手渡されるシーンがある。言葉はわからなくても、「幼子」のかわいさ、愛おしさは人類に共通の普遍的感情だ。人間は人から世話されなければ絶対に育たない。誰しもが、幼子として人から愛され、育った時があったのだ。そのことを思い起こす時、人類の平和という夢を、もう一度見たくなる。

最後に、散々繰り返された「ユダヤ人の社長」とは誰だったのかを考えたい。野田秀樹の舞台は、あらゆるストーリーが交錯していき、最後に一気にその仕掛けが暴露されて「そ、そうだったのか!」となることが多いが、今回の舞台はわりと序盤から「ユダヤ人の社長」という文句が出てきて、「あーそういうことか、はいはい」と仕掛けを読み取ることができた。しかし、終盤近くになって「でもユダヤ人じゃないことだけは確かね」「え?ユダヤ人じゃないの?」「だって、八百長の元締めが、ほんとのこと言うわけないでしょ」というやり取りがあり、単なる「ユダヤ人の社長」のヤラセの単純な構図ではないことが示唆されていた。ユダヤ人といえば、アメリカのネオコン的思想基盤となり、かつアメリカの金融資本を大きく牛耳っているということが頭に浮かぶが、実はそう「言われて」いるだけで、本当はそれ自体が「ヤラセ」かもしれない、という警告の意味合いだったのかもしれない。

「止まれるはずだ、人類ならば。」
この言葉は、ずっと僕の中で響き続けている。
posted by かっしー at 17:53| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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