2007年05月29日

映画「バベル」

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友人と「バベル」を見に行った。

豪華キャストの大がかりな映画のわりには、ありがちな感動ストーリーや大スペクタクルもなく、描かれる世界はいたって現実の自然な日常的世界。押しつけがましい主張も一切なく、かつテーマとしては非常に重く、考えさせられる真面目な映画だった。映画の中心テーマは「我々は相互に理解できない」というその一点である。このテーマで考えれば、この映画は静謐な悲劇であり、物語の姿勢は基本的にニヒリスティックだ。そういう意味では、そのへんのちゃちな感動モノドラマよりも圧倒的なリアリティがあるし、現代社会の孤独をめぐる問題を斬り込んでいく強さが感じられ、自分はとてもおもしろく見た。

物語は、モロッコ、東京、アメリカ&メキシコという異なった舞台で起こる4つの話が、同時進行で、複合的に関係していく。

モロッコでは、地元少年が遊び半分で撃った拳銃の弾が、アメリカ人観光客の女性にたまたま当たってしまう。この事件はテロ疑惑も出て大騒動になり、警察に逮捕される少年。逮捕の際に、警察と銃撃戦となり、実兄を撃たれてしまって泣きながら自首する。

一方、銃に撃たれて重傷を負い、辺鄙な村でレスキューのヘリを待つ女性とその夫。もともと夫婦仲がうまくいっておらず、2人で話すためにモロッコへ来ていた。夫が「許し」を請いても妻は聞く耳を持たなかったが、撃たれる事件があってから2人の愛は回復する。

その夫婦には2人の子どもがいたが、旅行中メキシコ人ベビーシッターに預けられていた。彼女は息子の結婚式に参列するため、預かっている子ども2人を連れて、アメリカから無理にメキシコまで行こうとする。そこで否応なしに浮き彫りになる文化の差異と国境の隔たり。はからずも不法入国犯になってしまい、ベビーシッターの中年女性は砂漠を逃げまどう。

モロッコの少年が撃った銃は、かつて狩猟が趣味の日本人男性の旅行者が、現地の人にプレゼントしたものだった。その際に現地ガイドに渡した銃が、人にめぐって今回の「殺人未遂」に使われた。その娘の女子高生は、母を自殺で失い、聾唖であるということだけではない孤独感を抱えている。

これらの異なった物語から見えてくるのは、世界は緊密につながっているということだ。遠く離れた地球の裏側にすぐさま影響を及ぼすほどに、世界は縮小し、密接に関わり合うようになっている。しかし、決定的なのは、世界は縮小しているのに、私たちは分かり合えない。理解できない。タイトルからも分かるように、この映画の主要テーマである「相互の理解不能性」は、いくども形を変えて登場する。

モロッコの田舎町では、英語すらまともに通じない。重傷のアメリカ人女性は、モロッコの現地の老婆に不気味なタバコを吸わされる。アメリカ人がお礼にお金を差し出しても、モロッコ人はそれを断る。アメリカ人の子供は、メキシコで鶏を絞め殺すシーンを見て呆然とする。メキシコ人ベビーシッターは、入国審査によって生まれた時から面倒みてきた子どもと決別させられる。東京では、聾唖女子高生が同年代の男にただ弄ばれて傷ついていく。その父親は、娘とうまくコミュニケーションがとれずに咎められる。等々

人間が抱える孤独な魂は、肌の色や、国境、言葉、そんなことだけではなく、より身近な家族でさえ、気づかず、救えはしない。そのことを、映画は淡々とニヒリスティックに描いていく。そこに希望が見えない。人間同士の静かな亀裂が、いかにも坂本龍一らしいニヒルな雰囲気の音楽と相まって、色濃く浮き立ち、際だっていく。

でも、本当にこの映画はそんな「希望のない」映画なのだろうか。

この疑問がどうしても気になったので、家に帰ってから監督のインタビューを読んでみた。こういう風に、映画とは別のソースで製作者の意図を調べてレビューや批評を書くのは邪道ではあるが、分からないから仕方ない。メキシコ人である監督イニャリトゥは、どうやら、世界中の相互の理解不能性の中で「希望」を描きたかったらしい。その「希望」とは、人類普遍的な、相互理解可能なものとして「Compassion」というものだという。この映画のどこに「Compassion」があるのかと思いめぐらせば、たしかに、なくはない。怪我をした妻を励まし、慰め続ける夫、その夫婦愛は回復する。子ども2人のために砂漠の中を命がけで助けを求めるメキシコ人ベビーシッター、撃たれた兄を救うために銃を打ち壊して自首する少年、全裸になって関係を求める聾唖女子高生を静かに抱きしめる刑事など、たしかにひとつの「Compassion」の形として考えられなくもない。相互理解不能な世界の中で、かすかな希望として、人々は人に抱きしめられ、救われていく。ただ、それが「Compassion」の力として感じさせるには、あまりにも内面の描写が足りないのではないか。残念なことに、この映画はその点で非常に中途半端だ。だから、見る者は感情移入まで至らず、「ヤリマンな聾唖障害者なんて見ていて不愉快」などという安上がりな批判で終わってしまうのだ。世界の異なる場所を、巧妙に時間をずらしながら進行させていく手法は冴えているし、場所を複数登場させる効果も大きな意味があるだろう。世界はこんなにも縮小し、緊密に絡み合っているのに、相互に理解できないというそのニヒルな主張は、かなり印象深く心に残る。その意味では、監督の意図とは裏腹に成功していると言えるだろう。しかし、中途半端に「希望」を描くくらいなら、徹底的にニヒリズム的境地を描ききった方がよかったのでは、と個人的には思う。「希望」を描きたかった、という監督の発言は、もしかしたらインタビュー用の客集めのための言葉だったのかもしれない。
posted by かっしー at 02:15| 京都 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
御意
Posted by at 2007年06月09日 20:33
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