2005年12月16日

丸山真男「『である』ことと『する』こと」

 高校3年の現代文の教科書に載っていて、革命的な感銘を受け、それ以来僕の思想回路を虜にしている文章。ほんの30ページほどしかないが、何度読んでも新鮮さを感じさせる名文だ。

続きを読む(長くて堅い文章ですが…)
posted by かっしー at 04:41| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月11日

オルテガ『大衆の反逆』

 受験勉強中に、小論文の模範解答にこの本の引用があって、気になって読んで出会った本。以来、自分のバイブル的な書物になっている。スペインの哲学者オルテガ=イ=ガセットによる『大衆の反逆』(1930)。彼は、社会を「真の貴族」と「大衆」というダイナミックなファクターに分けて考える。「真の貴族」は、自らに高度な要求を課す人々のことである。一方、大衆は「平均人」であり、諸権利を主張するだけで自らに頼むこと少なく、他の「すべての人」と同じであることに喜びや安堵を感じる人々のことであるとする。第1次世界大戦後のヨーロッパで、そのような「大衆」が社会の中心に台頭することにより、まさにファシズムは勢力を伸ばしていた。この本は、そのような情勢の中での未来への警告書である。

 浪人時代に初めてこの本を読んだとき、自分の思っていたモヤモヤを鋭い言葉として見事に打ち抜かれた感じがして、「いやぁ、まさに!」と非常に感動した。オルテガの、冷静沈着ながらも熱さに満ちた文体。ハイデッガーの言う「ダス・マン」と通ずる大衆堕落の告発。70年以上前に書かれた本ではあるが、まさに今もこの問題は究極的に深刻になっているのではないか。大衆は大衆として、社会や公共から分離し、常に自分中心の世界にしか考えが及ばず、なおかつ流行や消費の波に群がって同一化していく。自分は、もしかしたら、日本の社会はこの"大衆化"、”公共離れ”がほかのどの国よりも進行しているのではと思う。自分が常々取り組みたいと思っているのはまさにその”大衆化”であり、世の中をマスとして見たときの政治や公共のあり方の問題である。

 『大衆の反逆』は哲学書であり、社会科学の本ではない。というのは、いかなる切れの鋭い論説があっても、その根拠となるデータ(数値)が一切ないからだ。そのデータは社会からどのように写し取ることができるのか。そこも非常に大きな問題であり、そうなると社会心理的な方法論も重要であるだろう。必然的に統計学も必要になってくるかもしれない。また、この問題は、政治哲学(民主主義)とも非常に密接な関係性を持つ。紀元5世紀のプラトンの『国家』の中にも、既に、民主主義の中で努力せずに堕落する人間を非難する箇所があるので、ぜひそこを原文の古典ギリシア語で読みたい。さらに、オルテガやハイデッガーの主張を根本から理解するには、独自の「生」の哲学や、実存主義的思想においても深い勉強が必要である。こうやってこの『大衆の反逆』について書こうとすると、”自分のやるべきこと”が次から次へと吹き出してくるあたり、やはりこの本は自分にとって徹底的に立ち向かうべきバイブルであり、原点なのだろう。
posted by かっしー at 02:48| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月07日

村上春樹『海辺のカフカ』

 大きく分けて2つの話が同時に進行しながら物語が進んでいく。家出した15歳の主人公と、知的障害のある50過ぎのおじいさんであるナカタさん。その2つが微妙に重なり合いながら、あるひとつの方向へ収束していく……のかと思ったら、最後はやはり春樹ワールドで、そんな推理小説みたいに「謎が解決して納得!」という方向には行かず、摩訶不思議な世界はそのまま形を残したまま、それよりも少年の再出発へと話は進んでいって物語は終わる。「そうだよな、春樹の作品にオチを期待している読者はいないわな」とは思ったが、今回は謎が膨らみすぎた。はたして少年の父親はジョニー=ウォーカーだったのか、佐伯さんは少年の母親だったのか、さくらは少年の姉だったのか、ジョニー=ウォーカーの猫殺しは何だったのだろうか。空からイワシやヒルが降ってくるとは。最後の怪しいヌメヌメの生き物(?)とは……。挙げていったらキリがないが、そんな真偽も気になりつつ、でもそれはどうでもいいんだなと思いつつ、読み進めていった。「メタファーだ」というセリフが何度も出てくるから、このような奇怪な事件も何かのメタファーなのかとも思って思いを巡らせていたら、どうもそうではなかったらしい。仮説は仮説として、可能性はあくまで可能性でしかないという奥ゆかしさを秘めたまま、物語は終わる。それはそれでいい雰囲気の時もある。しかし、今回自分が感じてしまう「謎」は物語の根本のところを提供してくれない。少年は「父殺し、母(そして姉をも)を犯す」というオイディプスのような予言を受けるが、これが必然性を持ってそうせざるを得ないような状況の中で遂行されていくのではなく、ただ少年の気まぐれで唐突に起こっていったような感じで、取ってつけたような自立した大人への通過儀礼的な要素でしかない気がするのだ。脈略がないという点も「シュール」と言えばシュールなのだが(そしてまた「そこがいい」とも言えるのだが)、春樹がなぜオイディプスを踏襲しようと思ったのかが全くわからない。この点は、物語の本質的なものに迫ろう迫ろうと突き進んで読んでいく自分に対して、その読みが間違っているのか、そもそも物語の本質的なものなんてないのだから気にしないでいいのか、どちらかだと思う。また、少年のナイーブな心と佐伯さんの関係はまだいいが、父親殺しはほとんど記述されていない。そして、ナカタさんの存在は、ただの少年が入り口を入るという上での媒介的なものでしかないのなら、なぜ同レベルで話が語られていくのか。そして結局ナカタさんの話の結末に幾ばくかの物足りなさを感じてしまう。

 ストーリー全体の流れにはどうも心が動かされなかったが、ぐいぐい読んでいくことができた。それは、文体と随所に出てくるエピソードがおもしろかったからだ。

 まず、言葉が読みやすく、きれいである。まるでよどみなく涌き出てくるかのように、自然な言葉がつづく。ときたまそれは編集された映像として頭の中で想起されるような、美しい描写と流れがある。また、本文中にも「メタフォニカル」という言葉が何度か登場するが、そのメタフォリック加減も美しい。春樹の作品は何本か読んだが、この作品ほど文体の美しさを感じさせられた小説もなかったかもしれない。

 自分が気に入ったのは、星野青年である。「おれっち」と自分を呼ぶトラックの運ちゃん青年だが、これがおもしろい。何気ないところでナカタさんと会い、彼に自分のじいさんの影を重ねてナカタさんに付き添うのだが、そんな中で彼はふとベートーヴェンの音楽と出会い、またはふとヘーゲルの言葉を聞き、ふとトリュフォーの映画を観ることなる。すると、週刊誌しか読まない普段の生活から、何かそこに新しい風が巻き込んでくる。それが、いい。こういうギャップは好きだ。自分がベートーヴェンやトリュフォーが好きだからこういうことを言っているのでない。とにかく個人の志向性は何ににも捕われず自由であって、その開放感が気持ち良い。

 また、大島さんがフェミニストの2人をやりあげる場面もおもしろい。まさに教養のある大島さん。ああいうふうに頭がいい人になりたい。知識を、自分の骨や肉として、生きるために使える人。自分もフェミニズムに抵抗感を感じていることもあって、この場面は非常に痛快だった。

 とにかく、読んで楽しい本ではあった。しかし、最後は「おい、これで終わってしまうのか」という物足りなさを感じざるをえなかった。現実から乖離しているような浮遊感覚を味わうのは春樹作品の醍醐味だろうが、浮遊したあと、どこへいくのか。そこになにか一筋の光がほしい、と思った。
posted by かっしー at 01:38| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月06日

池澤夏樹『夏の朝の成層圏』

 自然の美しい南の海で、ある日本人新聞記者が船から落下して漂流し、無人島にたどり着いて、その後自力で生活していく話である。美しい夕焼けや心地よいそよ風など、南の島の大自然の、その微細な感覚が丁寧に繊細に記述されている。

 北アルプスでの長期バイト中、湖のほとりの岩に腰かけて「ちゃぷちゃぷ…」という波の音を聴きながら、たまにスーっという涼しい風に頁をめくられたりして、これ以上ないくらいの心地よさに身を浸してこの本を読んだ。一気に読んでしまった。本を読むのがこんなにも自然に進んでいく体験したことがなかった。その物語の中のゆったりとした空気と、今自分がいる北アルプスの空気とが非常にうまく呼応したのだろう。文明から突然全く遠ざかってしまった主人公の気持ちと、突然下界から隔離された空間に閉ざされてしまった自分とが重なり合ったのだろうか。とにかく、その場の自分と雰囲気に合った小説だった。

 池澤夏樹という作家は自分の一番好きな作家だ。透明感がある静謐な文体で、読んでいて神聖な気分になる。その作品から立ち上がってくる問いかけも、自分の心の奥底まで響いてくるような深さがある。雪の結晶は、触ろうとすると触った瞬間に解けてしまう。そんな感じ。出来上がった文章だから壊れやすいことはないんだけど、大切に、そっと、純粋な気分で向き合いたい作家である。
 
posted by かっしー at 14:01| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

読書感想文のススメ

小説を読むと「読書感想文」を書きたくなる。「批評」や「レビュー」ではない。内容の「要約」とも違う。「感想文」というそのスタイルが僕は好き。

その気楽さがいい。率直な意見、感想、印象でいい。へんにレトリックに凝ったり、難しい言葉をわざとらしく使ったり、同じことをくどくど述べたりする必要はない。「僕にはこれは合わない」「このシーンが好きだ」「正直全くわけがわからない」というような、まずピンと頭に思うことをとりあえず言葉にしてみる。出るだけ出してみる。そうすると、大抵”?”がたくさんあるから、その答えを自分なりに考えていく。そうしているうちにあれやこれやと考えがめぐっていく。頭の中で自由気ままに旅をする。あまりに自由気ままだと文章に脈略がなくて読みづらいから、そのメモをもとに改めて書くことも多い。 

そうやって疑問でも何でも「書く」と、なぜかその"?"は頭の片隅に残っている。それがひょんなことでふと答えが見つかったり、別のものにアナロジーを感じたりする。その発見がとてもうれしい。「書く」ことは非常に骨が折れることだけども、それだけ深いものだと思う。
posted by かっしー at 12:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年06月04日

片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』

 愛する人の死はとてつもなく悲しい。

 そんなのわかりきったことだ。小説や映画で本当によくあるテーマである。この小説は、始めのTページから、語り手の恋人が死んだんだなと想像させるような文章で始まる。遺骨を撒くというのはなかなか印象的だったが、それ以外にたいしてユニークなエピソードもない。愛する人が死ぬ。その悲しさに直球をぶつけるような小説だ。

 はっきり言って、僕にはそんなにおもしろくなかった。もちろんアキが死んで悲しかったし、恋人同士の会話はほほえましかったけれども、そこまで感情を揺さぶれるような描写には出会わなかったし、なんて陳腐なテーマだと興ざめしていた。第一、ずるいと思うのだ。物語に「死」が出てくると、読んでいる誰にとっても、ものすごいリアリティがある。何であれ(「タッチ」であれ「あすなろ白書」であれ「ビューティフル・ライフ」であれ)、ストーリーの中心にいた誰かが死ぬと、それまで恋だの不和だのへちまだのといった問題に一喜一憂していたのが一気に吹き飛ばされるほどの、圧倒的な深刻さ、重大さがある。誰にだって重いし、悲しい。それを全面に出してきて、「悲しいよね」なんて、あたり前だとしか思えない。

 ただ、この小説が、ほかの「死」に直球の小説と比べて特異に思うところは、そこまで重さがないのだ。死への悲しみのあまり絶望を見たりしない。「ロミオとジュリエット」のような派手派手しい悲壮感は全くない。重いカタルシスとは全く違う、ある種、爽快感とも言えようか。全てが、悲しみの当事者によって静かに、淡々と語られる。風のようにすうっと過ぎ去っていく悲しさがある。「風」という言葉は、なかなかこの小説に合うかもしれない、と今思った。遺骨が風に飛ばされるシーンにしても、「風」は印象的だった。「風」のように涼やかな、それゆえに心全体を吹き流すようで、どこかふっきれた開放感もあって、美しかった。同じ「風」はもう二度と戻ってこない。一連の恋の話も、もう絶対に戻ってこない。でも、どこかで空気の循環があって、さっきの風と今の風はどことなくつながっている。周りめぐっている。風に吹かれていった遺骨も、大地に吸収されて循環する。そのすごく大きなスケールでの循環が、「死」の絶対的な終焉としての悲しみをふわっと軽くさせている。朔太郎の気持ちも止まらずに動き出している。それが心地よい。

 しかしなぜ、今この小説が世間でこんなにも受けたのか。純愛の流行なのだろうか。それもあるかもしれないが、僕がひとつ思うのは、装丁の良さだ。曇りがかった夕暮れ時の、都会の空の写真が表紙になっていて、思わず目を引く。すっきりとしない曇り空が、どこか奥ゆかしくて、悲しくて、もの言いたげな感じに見えてくる。そして「泣きながら、一気に読みました」という柴咲コウのコメントが真っ青な帯に大きく書かれていて、つい手を取ってしまう。口コミが大事とされる今、批評じみた堅い一言よりも、身近な人がふと漏らした感想のような、単純な一言の方が、読む人の心を誘うのだろう。「重さがない」と指摘した点も、人気の理由に挙げられるかもしれない。真に心を動かされるものが少なくなったために、世の中みんな感情に飢えているのではないか。思い切り泣きたいし、笑いたい。でもどっぷりカタルシスに浸るほどの体力もエネルギーもない。そういう時に、さわやかに、しかし悲壮なストーリーを軽く味わえるこの小説は、その役割を発揮したのかもしれない。
posted by かっしー at 16:37| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年05月05日

武者小路実篤『友情』

具合が悪い時に、寝転がりながら読んだ。

簡単に言えば、主人公の男(野島)がある女性(杉子)に熱烈に恋したが、主人公の親友(大宮)とその女性が相思相愛になり、それを後々になって知った主人公は絶望の淵に追いやられる、という話である。大宮は、野島との友情を考えて杉子との相思相愛を隠し、避けようとするのだが、僕はそういう大宮の行動に強い違和感を持った。もし自分が大宮だったら、間違いなく野島に「おれも杉子のこと好きだ」と言っている。周りに素直に言うべきだろう。偽り続けても、自分にも他人にも嘘をついていることになる。しかもこの場合は杉子も大宮を好きなのだから、いいだろう。2人がくっついて何の問題もないじゃないか。3人が3人とも幸せになるのは不可能なのだから、せめて2人が幸せになればいいという話だ。野島が失恋でちょっと苦しむだけだ。それは恋愛において致し方ないことだろう。大宮も、失恋した野島を見てつらいかもしれないが、それが3人にとって最適解であることは間違いない。あまり素直すぎるのも危険だが、率直に考えを言い合うことというのは長い人間関係の秘訣だと思う。秘訣というか、率直に言い合える関係で関係が続くこと自体が珍しく、それが出来れば関係も長く続くというだけだけれど、長く続く人間関係に偽りはない。そのへんを大宮はわかっていない。大宮は友情を勘違いしている。夏目漱石『こころ』の「先生」も同じことだ。普段素直に言い合えていればいいのに、突然「K」を裏切るから自分も必要以上に苦しいのだ。

と少し考えてから、自分が非常に現代的な考え方をしていることに気がついた。合理主義的とも言えようか。たしかに昔は義理堅かった。この宮本の行動も、野島との友情という「義理」によるものだろう。現代的に考えれば、「義理」は非合理的で矛盾だらけである。数値化された価値(効用)に、そんな矛盾だらけの義理や人情は考慮されない。昔はなぜ義理が強かったのか。義理を固く守ることにどのような価値があるのだろう。(この考え方自体がすでに合理的ですね。)逆に義理に無頓着になった現代に、何が失われたのだろう。ふと高倉健のヤクザ映画を思い出した。「義理」は矛盾だらけではあるけれども、どこか肯定したい気に駆られてしまう。
posted by かっしー at 20:10| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。