2006年08月22日

過去を美化する心理――ノスタルジーにひたるということ

 こないだ、小学校の同期で集まって飲んだ。

 卒業して早10年。クラスによっては途中同窓会もやったらしいが、同期で集まるのは卒業以来初めてだった。自分が言い出しっぺになり、幹事をやった。どういう流れでこの集まりを開くことになったかというと、mixiで小学校の友達が2〜3人集まって、同期のコミュニティが作られたのが始まり。だんだん人数も増えていき、コミュニティにいる人数は今や26人。久しぶりに連絡が取れた人ばかりで、懐かしさのあまり、再会計画を立てた。mixiに限らず、個人的に連絡のつく人には知らせてもらって、結局飲み会の参加者は25人にもなった。今でもこれだけ集まれるのは、東京に住んでいて地元を離れない人が多いからだろう。終電も関係なく、20人近くもオールで朝まで飲んで、最後はみんなでチャリに乗って、みんなの家に送りながら帰った。とにかく10時間くらい当時の話に華を咲かせたわけだが、大人になったからこそわかってくる面も多く、とても楽しかった。

 こういうノスタルジーにまったり浸かることが、最近多くなってきた。高校に教育実習に行って高校生を懐かしく思い、大学1年生のボートレースを見て当時を思い出し、その時の仲間と昔のエピソードを語りながら笑う。自分もオジサンになったなーと思う。言ってみれば、ノスタルジーに浸る行為は、全く進歩的ではないわけだ。未来へ向かって一歩を踏み出すのではなく、過去の様々な思い出を美化し、「あの頃は○○だったね」と言いながら、今の自分との距離感をいとおしく思うだけである。そんなことは誰でもできる。自己充足的で、動物的な行為だ。だが、年をとるにつれて過去が多く積み重なっていくと、なぜか必要以上に美化したくなってしまう。それは、大人になった故の心理なんだろう。

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2006年08月17日

南原繁と8月15日を語る会

8/15の夜に、安田講堂にて行われた「8月15日と南原繁を語る会」に、スタッフとして参加してきた。僕に与えられた任務は、会が始まってからは右翼が乱入して妨害した場合に取り抑えるというものだったが、残念ながら右翼の乱入はありませんでした。でも、看板作ったり誘導したり撤収したりと忙しかった。

南原繁とは、戦後すぐの東大の総長で、専門は政治哲学。戦後すぐの失望した日本人に対して力強いメッセージを放ち、戦後教育制度の構築などに尽力した人だ。この会は、立花隆が『天皇と東大』という連載を終了しての記念イベントだった。ゲストスピーカーが著名人ばかり。大江健三郎、姜尚中、高橋哲也、佐々木毅など、錚々たる顔ぶれだった。以下、自分のためのメモ書き。

さて、肝心の講演会の内容。
特に僕がおもしろい!と思ったのは、次の2点。

・南原繁は「洞窟の哲人」と呼ばれるほど象牙の塔に閉じこもった研究者であったのに、学徒出陣の悲しさを契機に、世に積極的に出て訴えかけていく実践者に変わった、ということ。その学問と社会との距離感、付き合い方がおもしろいと思った。
(ちなみに、学者になる前は内務省で勤務する実務家だったらしい)

・政治学は、理想主義と現実主義の往復運動である、とすれば、南原繁は、理想主義者に位置しながら現実を見る学者だった、ということ。また、「現実を批判するのは現実ではなくて理想である」と大江健三郎が言っていたのが印象的だった。

というわけで、以上、自分のためのメモ書きでした。
ちなみに、この会の模様は1時間に編集して、2−3週間後にNHKBSでやるらしいです。
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2006年08月12日

ク・ナウカ「トリスタンとイゾルデ」

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「ク・ナウカ」という劇団の舞台に行ってきた。@東京国立博物館庭園2005/7/28

ク・ナウカは、ちょうど1年前の「王女メディア」があまりのインパクトだったので、今回も期待して行った。いつものように当日券で行ったら、一番前の真ん中という席に座ることができた。

「トリスタンとイゾルデ」というのは、ワーグナーのオペラで有名な物語だ。家臣と王女との許されない恋を描いた恋愛劇で、最後はみんなバタバタ死んで終わる。舞台はものすごい迫力で、美しかったが、正直に言えば、ちょっと期待はずれだった。

ク・ナウカ主宰の宮城聰という人は、ご丁寧にもパンフレットにこの舞台の狙いを書いてくれている。それによると、「近代の解体」――とくに「恋愛至上主義」へのアンチテーゼ――として、この脚本を演出しているらしい。「唯一無二のあなたとわたし」という喜びではなく、むしろ「唯一無二でない」ところに生命体としての祝福を見いだしたい、と書いてある。

このねらいは、残念ながら舞台上でしっかりと描き出されていないと僕は思う。というか、僕には全く伝わってこなかった。なぜなら、「恋愛」というテーマは話の中核であり、もちろん恋愛の「唯一無二」という価値観は、否応なしに話の中心にあったからである。もし「唯一無二」という恋愛の特徴を抜いてしまえば、話が全くの骨抜きになってしまうだろう。愛する人の死は空虚になり、悲しみは共有されず、ただ男女が情欲に溺れるだけではないか。「王女メデイア」の時は演出が非常に腑に落ちたのだが、今回は宮城聰の意図は全くわからなかった。

最期の、宇宙と融け合って永遠を誓うイゾルデは、なぜ自殺せずに、剣を捨てたのか。わからなかったです、ぼくは。
posted by かっしー at 01:58| 東京 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月24日

教師という仕事の「虚しさ」

3週間の教育実習が終了した。
授業を29回もやってみて、一番心に深く印象づけられたことは、
教師という仕事の「虚しさ」だ。

教師は、生徒を前にして、多くのことを教える。しかし、それが生徒の何になるのか、どのような役に立つのか、教えたことによって生徒がどれくらい成果を生み出すのか、ということに関しては、教えている教師は全く分からない。「成果」が確かめられない。もし「成果」があるとしても、(いや、たしかに「成果」はあるはずなのだが)それは非常に長期的に表れてくるものでしかなく、それを自分自身で確認する方法はない。当たり前だが、テストの点や大学受験の結果などは本当の「成果」ではない。テストのために授業しているわけでは決してないからだ。もっと長期的なもの・人生における素養としての知を、いかに体得させられたかという観点で、教育は行われるべきであり、そのような教育を目指す時に、その「成果」を確かめることは、あまりにも困難である。そして、そのように「成果」の見えない中で、毎年毎年、ほぼ同じことを、繰り返し新しい生徒へ教えていく作業が続くのである。そこでのため息、徒労感、虚しさ。そのような空気を、教師側に立ってみて初めて、感じ取ってしまった。

実際、先生方の愚痴を聞いていると、生徒は毎年変われど、毎年同じことの繰り返しによる閉塞感を言葉にする方も多かった。ある先生は「君たちは3週間だけだからいいよな。おれはあと20年だよ…」と言って嘆いていた。これは、教師になってみて初めてわかる視点だった。たしかに、生徒にとっては1回限りの授業でも、先生はその内容を、同じネタで、何百回も話をするのだ。僕は同じ内容を7回授業をしていたのだが、たった7回ではあるけれど、まるで自分が機械になったかのように感じられた。その繰り返しの連続に、教師がどこか単調さを感じてしまうのも当然かもしれない。

成果は見えない。そして、同じ事の繰り返し。
教師の仕事には、そんな「虚しさ」がある。

しかし、それでも僕が、この教育実習を通じて、前よりも一層「教師」という仕事に惹かれてしまったのは、やはり教えるという作業の中に、未来の大きな可能性や夢がつまっているからだろう。

僕のホームルーム担当は3年A組だった。受験勉強と行事の折り合いをつけながら、頑張っている3年生。悩んで、遊んで、精一杯努力していた。その姿を見て、僕は彼らの未来を想像して非常にワクワクさせられたし、彼らの可能性を精一杯伸ばしてやりたくなった。相談に乗ったり、クラスの選手を応援したり、一緒に体を動かしたりしている中で、こちらも大いに励まされた。

授業を持ったのは1年生。高校入って2ヶ月ちょいの彼らに、「憲法と基本的人権」について4回分の授業を受け持った。「基本的人権」の概念を、ぜひとも生きる糧にして欲しい、という思いで授業を行った。「差別でこんなに苦しんでいる人がいる」「僕らは不当に拘束されない権利を持っている」「権利を守るには不断の努力をしなければならない」「大人になるには責任が伴う」「新自由主義改革が進んでいる」………など、彼らに伝えた多くの情報の中で、数年後に覚えていることは本当にわずかかもしれない。でも、そのわずかに、僕は可能性をかけたくなった。未来に、どこかできっと生きてくる。教師は、それを信じる職業なのだ。

未来を信じる職業。かっこいいじゃないか。
自分は今のところ、大学院に進んで研究者になりたいと考えているが、
どのような道に行っても、何かしら「教育」に携わることにはなると思う。
そのような、自分の人生の方向性を感じさせられる体験だった。


この実習が終わって、今まで小・中・高校でお世話になった多くの先生方に、
手紙を書きたくなった。

「教えてくれて、ありがとうございます。
 先生が僕に教えてくれたことは、今、こんなにも役立っていますよ」
posted by かっしー at 21:38| 東京 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月10日

母校での教育実習

教育実習が1週間終わった。

僕は現代社会という教科の担当で、
「基本的人権」について4コマ分の授業を持つことになっている。
法の下の平等、差別問題、表現の自由、プライバシーの権利など
言うべきことはたくさんある範囲なので、
授業で使えるネタ探しに忙しい。

実習は全部で3週間あるのだが、
ほかの実習生は12コマくらいを担当するのが普通なのに
なぜか僕だけ29コマも授業をしなければならない。
しかも、同じ授業を7回もするという大変な状況。
先生の苦労がわかりました。

理想とするのは、ワークショップのような授業。
上から権威的に教え込むのではなく、
生徒と教師、または生徒同士が、同じ地平で
ともに影響し合いながら、学びを形成したい。
ただ、それを実践するのはとても難しい。
予測していないことにもすぐに対処して
うまくまとめていく力量が求められる。

僕が昨日授業でやったのは
「世の中、何が平等で、何が不平等か」というテーマ。
生徒に、それぞれ自由に挙げてもらった。
金や財産、能力などは人それぞれ違うもので不平等だが、
たとえば、義務教育を受けるなどの権利や機会は
平等に与えられている、と言えるだろう。
そして、「結果」の平等よりも「機会」の平等が
注目されつつある、という話に持っていきたかったのだが、
自由にいろいろ答えを挙げてもらうと、
予想もしなかったものが結構出てきた。

平等ではないもの…… 
真っ先に出てきたのは、「顔のよさ」でした。
さすが、思春期の高校生。
あとは、「性格」とか「テストの点」とか「先生の態度」など
予想外のものがいろいろ出てきてしまい、慌てました。
たしかに平等ではないもんね。
「顔のよさ」まで平等にするのは無理なので、
身体的特徴は、よっぽどの障害がない限り平等にはならない、
というニヒリスティックな話に落ち着いてしまいました。
本当は「機会はみんな平等なんだ!スタートラインは
同じなんだ!」という勢いに持っていきたかったのですが……
甘かったです。

これからこのネタを7回も繰り返す中で
アンケートを参考に、どんどん改良していこうと思います。
なんだかんだいって教育実習は楽しい。
がんばるぞ。
posted by かっしー at 23:06| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日常生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月22日

「やりたいこと」と「できること」

朝、寮の集会で僕が当番だったので、寮生の前で「就活と自分の方向性」の話をした。その中で、就職活動の胡散臭さについて、触れた。

就活で「自己分析」とかをやっていると、自分の言葉によって自分自身が定義されていくのがわかる。その言葉によってより強固な自分を得たというのは良い面だが、同時に、実際はそんな論理明快ではないのに…という抵抗感も感じる。たとえば、よく聞くフォーマットで「私はリーダーシップを取る人間です。なぜなら、大学のゼミでみんなを引っ張った経験があるからです」みたいなものがある。本来、その因果関係ははっきりしないものであるはずで、そんなに明快な論理で打ち出される性質のものではない。就活において、前後の文脈に沿わず、まるで決まりきっているかのように繰り出される自己PRは、あまりにも胡散臭すぎると日々感じていた。

それに対して、そのあと朝飯を食べている時に、寮の博士課程の先輩がこういう反論を言ってくれた。学問で論文を書く作業とは、自分がある限定条件を作って、暴力的なまでも、ぐいぐい自分の言いたい方向へ結びつけていくことが必要だから、就活でそういうプロセスが嫌だとか言ってると、学問こそ苦痛でしかない、と。

たしかに、その通りかもしれない。
僕は、まだまだ山に登り途中なので、自分が「言いたいこと」を新しく見つけて、論文を書く、という段階に行っていないので、正直わからない。いや、でも僕は反論したいな。学問は、就活に比べれば、まだ論理的な精緻さがあると思うんだけどな。たしかに自分の都合のいいように限定条件を設けて統計を出して、言いたいことへ持っていくのだろうけども、そこには数分の自己PRに比べれば、時間の余裕さと論理の整合性はあるからな。

学問が、自分に合うかどうかを判断するのは、難しい。
今回、僕は「できること」よりも「やりたいこと」によって道を選んだ。自分は器用貧乏なところがあって、それなりに何でもできてしまう。ただ、いつも「それなり」で終わってしまっていた。「それなり」で終わりたくない気持ちがあったから「やりたいこと」を選んだのだ。でも、そこでの自分の可能性を見極めるのは、修士の1年秋までで、修士に入ってからのその半年間が命だ、というアドバイスもいただいた。

とりあえず、僕は、今は何と言われようと、やりたいことをやる。
勉強しよう。
幸いにも、今僕は、勉強することが猛烈に楽しい。
posted by かっしー at 01:39| 東京 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月10日

未来の自分へのエントリーシート

高校時代から、異常に興味ある分野があった。

政治哲学。特に、民主主義についての理念の問題について、僕は今まで考えてきた。高校時代に、プラトンの『国家』、オルテガの『大衆の反逆』を読んで以来、「民主主義」「市民」「大衆」というものが信じられなくなった。直感的に、10年後、20年後に民主主義は大きく変革を迫られると思った。それを自分のライフワークにしたかった。だから、大学院に行って、将来は研究職になりたいとずっと思っていた。

しかし、大学の現場は、相当にカビが生えていた。外部との社会性が欠如した空間。難しいことばかり書いて、誰も読まない論文の山。そこに目的意識などはない。社会貢献などを全く気にせずに、とにかく象牙の塔の中に引きこもって、おのれの研究を続ける学者達ばかりだった。大学のアカデミックな現場に失望しかけた。そんな時、ひょんなキッカケでLMIのインターンを経験をして、ビジネスの世界に強く惹かれることになる。学問とビジネスの決定的な違いは、やっていることへの「当事者意識」が強いか弱いか、だと思った。そのビジネスの「当事者意識の強さ」に強く惹かれたのだ。

 学者という職業は、可能な限りの客観性を求められるために、物事の当事者にはなりにくい。政治について研究している人でも、実際の政治問題や政治情勢に対して当事者意識を持って研究している人は少ない。大抵「何のために研究しているのか」という意識が欠如していて、自己完結的に終わってしまうのだ。

 一方、ビジネスの世界は、外部の世の中と強く結びつきながら、「こうしたい」という目的意識を持って仕事に取り組むことが要求される。その、ビジネスの当事者意識がもたらすエネルギーに、僕は強く惹かれた。それは、世の中を変革したり、世の中に対して影響を与えたりする時に絶対に必要な意識だと思った。

 では、ビジネスの現場で、「民主主義」というフィールドを考え続けられるような職はないかどうか、考え始めた。「民主主義」と言ってしまえば大袈裟だが、社会全般ではなく、ひとつの組織の中で、どのように個人が責任をもって、組織にどのように貢献するかという問題は、まさに民主主義における市民と国家の関係に共通するものがあった。そのため、組織変革・人材開発などに携わってみたいと思うようになった。その気持ちで2月、3月の就職活動を行った。言ってみれば、どこの企業にも人事部はあるわけなので、幅広い業界を見て回った。また、ゆくゆくは人材の方向に進みたいとはいっても、初めから人材系に進むのではなく、ビジネスの基本的なスキル習得を考えて、経営や金融を視野も視野に入れて就職活動を行った。

 就職活動は、順調に進んだ。大学院という選択肢はまだ充分考えられたので、そこまでシリアスにならず、気が楽だった。落ちて凹んだところもあるが、特に大きな失敗もせず、どんどん進んでいった。面接などは、非常にスリリングな楽しい場所だった。しかし、3月後半、某生命保険会社に囲い込まれて最終的にそれを断る段階になって、改めて本気で自分に問い直してみた。ビジネスなのか、学問なのか。

 ビジネスに進めば、安定した収入が望めるが、自分のやりたいことはほとんど出来ない。一方、学問へ進めば、自分のやりたいことはとことん追究できるが、教授のポストを得るのは本当に厳しいので、おそらく安定した職に就けるのは35歳以上になる。非常に難しい選択で、悩みまくった。もちろん、このフレキシブルなご時世に、今現在の決断がこの後の人生全てを決めるというわけではない。2年ほどビジネスに進んでから、学問へ戻るという選択肢もある。逆もありうる。しかし、ファーストキャリアはとても重要である。特に、文系の院に進むのは相当の覚悟が必要だろう。

 学問は、本当に失望に足ものなのか、思い返してみた。僕の学科は相当やる気ないのだが、世にはエキサイティングなことをしている学者はたくさんいる。先日、新学期の大学院のシラバスを読んだ。あれもこれもと興味がわいて、どんどん興奮してきた。自分はやっぱりここで勉強したいと思った。僕は、しっかりと目的を持った、世の中に対して当事者意識の強い学者になる。そう決めた。もっと根本的な、でっかい変革を自分の中で夢描いているのだから、それをビジネスという枠に当てはめて矮小化せずに、リスキーでもでっかく夢を持ち続けてみようと思った。学問の道へ進むことは、どんな企業へ行くよりもハードな道だと覚悟している。なにせよ、頼れるのは自分しかいないのだから。でも、そうやって学問の場にいることが、自分なりの付加価値を生み出す一番最適な方法だと思っている。

 相談に乗ってくれたみなさん、あたたかく見守ってくれていたみなさん、ありがとうございました。僕はこれから必死に頑張ります。


……といっても、大学院の入試はまだまだなんですけど。笑
posted by かっしー at 15:41| 東京 🌁| Comment(9) | TrackBack(0) | 語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月15日

理屈の論理と感情の論理

 僕の友人に、ベジタリアンがいる。彼女はトルコに留学中に、屠殺場で豚が殺される現場を見た以来、肉は食べたくなくなったのだという。肉を食べずに何を食べているかというと、野菜である。肉の代わりに、野菜で栄養分をとり、大豆などで淡泊を補う。それはそれで大変健康な食生活である。ベジタリアンと自称する人達は、基本的に動物の肉は食べない。それは、生き物の命を殺してまで自分の食欲を満たしたり生命を存えさせることは、その人の倫理観に逆らうからである。

 このようなベジタリアンに対して、こう批判する人がいるだろう。「植物も生き物のひとつなのだから、植物を食べている時点で生き物を殺しながらそれを食べていることになるではないか」と。たしかに、植物も生き物である。命を殺して食べていることには変わりはない。ただ、植物まで食べないでいようとするなら、それはもう「よだかの星」になるしかない。そんな人生は選択せずに、大多数のベジタリアンは「動物の肉は食べない」というポリシーを守り通すのである。

 この論理は、どのように説明できるだろうか。
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posted by かっしー at 02:04| 東京 🌁| Comment(10) | TrackBack(1) | 日常生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月24日

新宿御苑に人を埋めてきた

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埋葬される友人。

墓に弔いの装飾をしたり、周りでぐるぐる踊ったり、いろいろやってみた。本人の希望により、最終的には顔の部分も埋めてみた。1時間ほど埋まっていたが、閉園時間になったので、やむなく甦り。甦りの瞬間はすんごい気持ちよかったらしい。

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いいな、ちょっと埋葬されてみたい。
posted by かっしー at 00:43| 東京 ☀| Comment(5) | TrackBack(0) | 日常生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月23日

NODA・MAP「贋作・罪と罰」

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 野田秀樹の舞台『贋作・罪と罰』を観てきた。(1/21夜@シアターコクーン)

 僕は、よく舞台でもコンサートでもライブでも何でも観に行くが、最近は専ら当日券主義だ。当日に、観たいと思ったその時にパッと行って、当日券で入る。もちろん当日行っても券が手に入らない時もあるし、たまたま当たった席が悪いというリスクは常に伴うが、「観たい時に観る、行きたい時に行く」というその気軽さには換えられない。特に、生でこういうものを体感しに行くためには、ものすごくタフな体力と集中力を要求されるから、1ヶ月以上も前に予約して決めておくのは性に合わないのである。最近分かってきたことは、「当日券は出しません」と発表しているものでも、大きなハコでやる時は、現地に行って交渉すれば出してくれたりもするし、キャンセル待ちで得たチケットは、たまにものすごく良い席だったりする。というわけで、今回も例外に漏れず、雪が降っているから立ち見に並ぶ人も少ないだろうと思い立って、中2階のとても良い立ち見席で観ることができた。

 というわけで、『贋作・罪と罰』。結論から言えば、野田秀樹ってやっぱりすごい。おもしろい。この不思議なカタルシスは何なのだろう。

続きを読む(……ネタバレあり)
posted by かっしー at 15:00| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(1) | 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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