2005年07月29日

人間全体の「善」とは

 たとえば、今、インドである疫病が大流行したとする。それによって、すでに何億人かが死んだ。その病原体が日本に入って自分の身にふりかかる可能性があるかどうかは別として、今、そのこと自体は「嘆かわしいこと」であるのか、という問いを立てる。

 状況として、世界は人口爆発が起こっていて問題になっている。問題というのは、つまり食糧問題であり、貧困・衛生問題である。地球の耕地可能面積すべてで最も生産性の高い小麦を栽培しても、養えるのは100億人ほどであるという。この限界を前にいて、人口爆発は人間のある程度の生存をおびやかすものだと言える。

生物的な種の概念で言えば(というか本能的に)、人類の繁栄とその存続は「善」である。これは前提である。このことは「持続可能な開発」は善であると言われる根拠になる。

 とすると、人口が急増して深刻な食糧危機が訪れようとしている今、ある程度人口が減ることは、地球の開発状況にとっても、善である。

 そうなると、先の問い「人が大量に死ぬこと」は「善」になりえないか。死ぬのが自分かどうか、自分とは全く関係のない集団かは別として(自らの生の主観は入る余地がないものとして)。

 だが一般的には、このような死は「非人道的」とされ、「悪」とされ、「悲しい」とされる。これはなぜか。この「悲しさ」をどうにかして正当化できないか。

 個人の感情に頼ることを考える。「同じ人間として、無惨に死んでいく人間を悲しまずにはいられない」という倫理観が、この問いを「悪」にできるだろうか。否、できないだろう。なぜなら、この倫理観は全ての人間が共有しているとは限らない故、普遍性を持ちえないからだ。悲しみは人によって違うし、またそれは大概個人の中で終始するものである。人間の集団全体としての「善」はこの主張から導き出せない。

 新約聖書に出てくる「よきサマリア人」は、目の前の、道に倒れている人を助け、介抱した。悲惨な状況にあるのが目の前の人ならば、悲しい感情は湧くかもしれない。助けたいと思うかもしれない。目の前に溺れている人がいたら、何も考えずにすぐに助けようとするだろう。そうして助けることは、おそらく功利主義的に言っても「善」である。その人と近い位置にいるならば、後で思わぬ見返りが来るかもしれないからだ。おそらく閉じた狭い社会では、人を助けることは「善」だろう。情けは人のためならず。

 だが、問題は、現代の世界でどこまでが「目の前」なのかということだ。何千kmも離れた国とも、経済的結びつきはますますかたいものとなり、物的流通・人的交流は絶えず行われ、テレビやインターネットを通じて、向こうの映像や声を見ることができる。でもそれははたして多くの人にとって「目の前」の人なのか。思わず助けざるをえない他者なのだろうか。

 人間個人の思いの範疇に及ばないほどに、生活世界が拡大しすぎた。そこに、現代の様々な問題のエッセンスが横たわっているように思う。
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2005年07月28日

映画「気狂いピエロ」(ジャン=リュック=ゴダール)

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 ストーリーはないに等しい。男と女が人を殺して、パリから逃避行する。愛と永遠。死と芸術。鋏で切り取られ、貼り付けられたような、断片的な言葉や映像、絵画。普段映画を見る時にはストーリーを追い求めずにはいられないが、そうしていくとわけがわからない。物語の「筋」はほとんど無視されている。そういうところからの「カタルシス」もない。女が死んだところで、悲しがっている男に感情移入もしない。なぜ男が青くペンキを塗るのかわからない。挙げていったらキリがない。そうだ、そんなことはどうでもいいんだ。とにかく、最後のシーンの海がとても美しい。空と海が融け合う映像は、「永遠」という言葉が重なって、吸い込まれていきそうだった。それだけで、僕は観てよかったと思った。

 女が歌うミュージカルのようなシーンもよかった。この映画、描かれ方がすごく自然なのだ。前後の辻褄は合わない時も多いけれど、そのシーンはなぜか躍動感に満ちている。そう思っていて、ちょっと調べたら、どうやらこの映画は全編シナリオ無し、即興演出で撮られたらしい。なるほど。その全体の構成もいい。明るいシーンもあれば、深刻なシーンもある。その場の空気を重たく定めようとしない感じは快かったし、観ていて全然飽きなかった。

 映画ファンなら避けて通れない、天下のゴダールである。でも、僕はそんなに感動したわけではなかった。むしろ観た後に残る疑問のわだかまりが苦痛ですらあった。といいつつ、忘れた頃に、また観たいと思ってしまうんだろうな。そしてまた思いっきりはぐらかされるんだろう。非日常。逃避。倦怠。死。美。愛。永遠。そんなもののどれかに心惹かれた時にでも。
posted by かっしー at 02:35| 東京 ☁| Comment(3) | TrackBack(2) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月22日

黒澤明『生きる』

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「仕事を休んでも誰も困らない」「生きているけど死んでいる」などと言われる男、渡辺という男は、役所の市民課課長であり、30年間無欠勤で仕事をしてきた。早くに妻を亡くし、ひとりで苦労して息子を育てるが、成長して結婚した息子は、最近は年老いた自分の遺産のことばかり気にしている。ある時、渡辺は突然医者から「胃ガン」と宣告される。「胃ガン」とは死を宣告されたと同じである。よほどショックで肩を落とし、自分が何のために生きてきたか、何をしてきたかをとうとうと振り返る。そして、せっかくなら貯めてきたお金をパアっと使おうと遊びにでかけるが、どんなに騒がしい場にいても、やはり死ぬというショックは消えない。ひからびたような役所の職場を離れ、玩具の製造工業に移った女性は言う、「つくるのは楽しいのよ。課長さんも何かつくったらいいわ。」その話を聞いて、自分も何かをつくろう……と思い立つ。そして、誰もが受け身の役所において、ある場所に公園を作ってほしいという市民の要望か ら、自分から主体的に動いて議員や他の課の人を説得し、公園を実現させる。そして、最期その公園でパタリと死ぬ、という話。

 もう、本当に胸が熱くなった。
 「生きる」とは、まさに生を「自ら」全うすることであって、さらに「つくること」=創造することを通じて、より本来的に「生きる」ことができるのだ。裏返せば、それは、役所的な怠惰・受け身姿勢、ルーティーンの意味のない繰り返しへ痛烈な批判でもある。実存的だ。死を意識することによって、より「生」なるものへ、自分自身をより本来的な自分へ「投企」することができる。たぶん、黒澤明はハイデガーと気が合うよ。なんとなく。
posted by かっしー at 03:50| 東京 🌁| Comment(3) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月13日

チャリンコへの愛

 4日前に吉祥寺で友達と会っていて、ちょっと路上駐輪していたら、2時間後に自転車が消えていた……。夜だったので、こんな時間に武蔵野市が撤去するはずはない。あたりをぐるぐる探したけど、どこにも移動されていない。やばい、盗まれたか……と猛烈に凹んでました。ちょっと前に自分で大修理して、タイヤもチューブもブレーキワイヤーも取り替えたばかりだったのもあって、ここ数日は精神的にも肉体的にも経済的にも大ショックだったのですが、今日の昼間に再度吉祥寺に探しに行ったら、500mほど離れた駐輪場の端に置かれているのを発見! 行方不明になっていた我が子に会えた感動を味わいました。よかった。やっぱりこの子じゃなきゃ。マイチャーリーLOVE。ちなみに乗っている自転車は、LOUIS GANEAUのCASPER。2年前に購入。走行距離は計15000km。

 都内をチャリンコで駆けめぐるのは、本当に楽しいのだ。みるみるうちに景色が変わっていって、次々と知っている街並みに出くわす。実家に住んでいた頃は山手線内なんて電車でしか行かないから、たとえば有楽町なら有楽町という点でしか街を知らないんだけど、自転車を乗っていると「実は有楽町と築地は近いんだ」「ここを抜ければ半蔵門に行くのか」なんていう発見があって、点と点がつながれて東京を征服した気になるのです。こないだ寮の先輩にバイクの2ケツをさせてもらってラーメン食いに行ってバイクの爽快感も味わったけど、いやー、あそこまでのスピード感はいらないんですよ。適度な手軽さ。自分で操作できる安心感がいい。自転車は電車よりも早いし、気持ちよい。たまに雨などで電車に乗ると電車賃を払うのがバカらしくなってくる。車が多い時間帯は大変だけど、深夜のサイクリングは車も少なくて気持ちよい。そして、閑散とした中でのビルの夜景に感動したり、ホームレスのおっちゃんが必死に空き缶を集めている姿に出会ったり、飲みつぶれて路上で寝ているおじさんを起こしたりと、普段はなかなか見ない側面をのぞかせる。信号は周りの迷惑にならない程度に無視する時もある(そしてたまに怒られる)けど、僕の交通ポリシーは2つ。車道を逆走しない、歩行者にはやさしく。一日平均25kmくらい乗ってるけど、まだ無事故なのです。ええ、これからもゴールドカードでがんばります。
posted by かっしー at 04:21| 東京 🌁| Comment(3) | TrackBack(0) | 日常生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月28日

幹事としての対抗戦を終えて

僕が責任者としてずっと準備してきたボートの対校戦が、6月25日に行われた。

大会そのものの運営はほとんど何の問題もなく進んだものの、開閉会式の次第や備品の管理など大会にまつわることで、いくつか準備のツメの甘さが露呈した部分があった。このための準備をしている中でも、何度も人に迷惑をかけた。そういうことがあるたびに自分が心底、嫌になった。

結局、自分の部は負けた。負けた時、猛烈にくやしかった。くやしいけれど、そんな感傷にひたっている暇はなく、閉会式や懇親会の準備に追われていた。そして、懇親会が終わって、みんなで輪になって歌を歌っている時に、涙があふれてきて猛烈に泣けてきた。

何であんなに涙が出てきたのだろうと考えてみる。僕は直接艇に乗っていたわけではない。でも、終始「勝ってくれないかな、勝ったらうれしいな」と期待に胸を膨らませながら準備していたので、いつの間にか僕の気持ちは艇の上にあった。その敗北感がひとつ。それと、僕は失敗した。この大会を通じて、いろいろな人に迷惑をかけたし、かなり当日のゴタゴタもあった。ボートの負けが、自分の失敗と重なった。できると思っていたのに、できなかった。くやしかった。だから泣けてきた。

でも、もともと僕はあまり「悔しい」という感情を持たない人間なので、こんなに悔しさを覚えたのは初めてだった。自分でも驚いた。「悔しさ」は、「信じること」が突然裏切られた時に噴出する感情だ。何かを「信じる」生き方にはいつも憧れを抱いていたけれども、どこか自分はそことは違うと思い、距離感を取ってしまう自分に、逆に寂しさも感じていた。でも、こないだの対校戦では、僕だけが泣いていた。とにかく、ただ悔しかった。

 自己管理能力があまい。細かなところまで思いが至らない。ギリギリにならないと動かない。.... 僕の問題点は挙げればキリがないけれども、でも、これから絶対克服してやるぞと、泣きながら思った。そんなものは、生まれつきのものとか、育ちのよさとかではなくて、頑張ればなんとかなる。もっともっと上を行ける。上はどこか、どんなところなのか。それは、まだ本当におぼろげで、なんとなくしかわからないけれど、とにかく上を目指していこうと思う。向上心がなくなったら人間終わりだ。まだまだ人間、終わっちゃいない。
posted by かっしー at 17:27| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | ボート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月25日

美容師さんと人生相談

 先日いつも髪を切っているところに行く時間がなかったので、よく前を通っているけどまだ入ったことのない美容室に行ってきた。下落合で、30代前半の男の人ひとりでやっている小さな店。夜12時までやっているという変わった店で、家庭教師のバイトが終わった夜11時頃に行ったのだが、そこで初対面ながら美容師さんといろいろな話をして、おもしろかった。

 突然「人生どうですか?」と聞かれてびっくりしたが、うーんと考えた後「就職するか大学で勉強を続けるかどうしようかと最近思ってますね」と答えたら、「やりたいことをとにかく必死にやり通せばいいよ」と言ってくれた。「一生懸命やれば、失敗しても成功しても是とできる」というのがその理由らしい。この手の話ならよく聞くし、そんな説教じみたことを…と半ば思ったが、この美容師さん、言うことが新鮮だった。

「お金をもうけたいと思う?」
「いやあんまり…」
「じゃあそこから変えてみようか。お金は、ないと何もできない。活動資金は何をやるにも大事。それが最終目的にはならないけど、見落としてはダメ。……体力ありますよね?」
「はい、あります」
「そうですよね、見ればわかります。もし経済的に無理というのがあるんだったら、睡眠時間を削って働くというのもひとつ。毎日8時間寝ている人がいたとして、睡眠時間を4時間にすれば、自由にあとの4時間を使える。10年あったら単純に1年半を何かに投資できる。それはすごいことだ」

うーん、なるほど。やっぱり、世の30代の人間はおもしろいな。世の中を知っているし、自分の身をどう振りながら生きていくかという問題に対して、ものすごく真摯。
posted by かっしー at 01:56| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日常生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月15日

能を観た

 能を観てきた。(5/14@宝生能楽堂)

 正午からの開演で、終演したのはなんと6時だった。途中抜け出したりもしたが、能の演目を3つ、狂言を
2つも見たことになる。野村萬斎なども出演していたから、かなり有名な役者が揃っていたのだろう。演目は、「金札」「誠願寺」「石橋」。狂言は「花争」と「二九十八」。

 率直に言おう。結構寝てしまった。聞き取れない、進むのが遅い、ストーリー性がない、スペクタクル性がない、同じようなことを延々と1時間半もやっている…… なんだかよくわからないことばかり。声は朗々としていて美しく、心に響いてくるけれど、そればかり6時間も聞いていると食傷気味になってしまう。能ってこういうものなのか、こんな世界があるのか、というのはわかったけれど、いまいち僕自身がその奥に踏み込めない感じで、また観に行きたいとはあまり思えないなぁ。

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posted by かっしー at 02:22| 東京 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日常生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月14日

学問はどこへ向かうのか

 この2年間、僕は「学問に何ができるか」ということをずっと考えてきた。大学1,2年の教養課程で、様々な分野の科目を学びながら、学問という知の全体像を探り、それ全体がどこへ向かっているか、その意義は何なのかをなんとかしてつかもうとしてきた。
posted by かっしー at 01:29| 東京 ☁| Comment(6) | TrackBack(0) | 語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月24日

文学部のカビ臭さ

 僕はこの春でようやく大学3年となり、文学部思想文化学科倫理学専修というあやしいところに進学したばかりだ。なので最近は文学部の授業をたくさん受けているのだが、どうもこれが面白くない。思いっきり愚痴になるが、この場を借りて文学部(特に思想系)のやる気のなさ、アホらしさを糾弾しようと思う。

 うちの文学部は、学生教授ともにやる気がない。まず、暗黙の了解のように第1週の授業が休講となっている。他の学部では信じられないらしいが、理由もなく、休講という張り出しもなく、教授が「今学期は4/22から始めます」と言えば、その日にやっと授業のガイダンス。説明も何もない。本格的に授業が始まるのはその翌週からということも多い。あと、教授が教室に来るのが遅い。10分くらい過ぎたころにやっと来る。遅刻の弁解もなく、それが当然のように授業を始める。学生もそれに慣れているから、時間通りにまず来ない。パラパラと来る。絶対おかしい。
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posted by かっしー at 03:06| 東京 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 日常生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月06日

孤独が欲しい

最近は、ボート部の新入生勧誘の業務に忙殺される毎日。ただ目の前にやることが山積みで、それをせっせとこなすだけで一日が過ぎていく。数日が過ぎていく。1週間、1ヶ月……うちに閉じこもったり、ふらっとひとり歩いたりする時間が全くない。このBLOGの記事も書けない。書く時間もないし、書くネタもない。いつもなら思うことがいっぱいあって書きたくなるのに、なんだか思考が停止する毎日。これでいいのか自分。

少々大袈裟な表現かもしれないが、本を読んだり人の話を聞いたりしてINPUTすることは、自分にとって食事を摂ることと同じような感覚。同様に、文章を書いたり人に意見を伝えたり作曲したりしてOUTPUTすることは、排泄行為と似ている感覚がある。INPUTしたものを咀嚼してOUTPUTに変えているわけで、全くINPUTしなくなればOUTPUTしなくてもいいけど、そのうち身体がもたなくて餓え死にする。どうしても、どうしても、僕は好奇心にまかせていろいろINPUTしたいし、そこからさらにいろいろ考えたい。考えるのは好きだ。

孤独が欲しい、と思った。

「孤独」については、クレタ島で変なヴェネチア人の若者と熱く議論したなー。ここ4〜5年間ずっとひとりで旅をし続けている変わった青年だったが、彼は、そういう風にひとりで旅することについて、寂しさはあるしつらい時もあるけど、やっぱりひとりじゃなきゃダメなんだと言っていた。ひとりでないと、自己の内面奥深くにまで入って、腰を落ち着かせて、物事を考えることができない。彼はフォトグラファーだったというのも、彼が孤独を選んでしまうひとつの理由だっただろう。芸術家はたいてい孤独だ。そんな話を聞いて、僕は必死に中島敦の「山月記」を英語で説明して、孤独には「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」に支配されて自己の内面だけで完結してしまう危険性がある、ということを話したら、その話をとても面白がってくれて、もう一杯酒をおごってくれた。

Je veux la solitude. La solitude est necessaire pour reflechir a quelque chose.

なんか突然フランス語で書きたくなったよ。じゅ う゛ら そりてゅーど。
posted by かっしー at 04:03| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日常生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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